漢字は中国で生まれ、その言葉を書き表すものとして発展してきました。
日本でもそれを使って言葉を書き表してきましたが、中国での状況とは違いがあります。
漢字には「形」(かたち)と「音」(読み)、「義」(意味)の三要素があります。
実は、漢字の辞書を作る際にもこの三要素それぞれで違うものとなってしまいます。
日本で用いられる「漢和辞典」は部首と画数から引くという、「形」主体のものですが、中国には発音主体のものもあり、意味主体のものもあります。
そういった、漢字の整理の方法は、すでに秦漢の時代からあれこれと工夫されてきました。
その中には、後漢の許慎が著した「説文解字」という字書があり、これは中国の文字学史上「聖典」とも言われているものです。
漢字の「部首」というもので整理した最初の字書であり、その後の字書はこれを改良しようとする方向で作られていきました。
漢字というものは、その一字で一つの物事を表現するという、他の文化の文字とはまったく異なる原理でできている文字です。
古代メソポタミアやエジプトの象形文字はそれに近かったのかもしれませんが、いずれも表音文字へと変化してしまいました。
漢字においてはそれが古代で誕生して以来続いていますが、もちろんその意味するところが昔から今まで変わらなかったはずはありません。
それとともに、ある漢字の意味するところが地域によって異なるということも、現在もありますが、古代でもその問題は存在しました。それは「方言」です。
実に、前漢の時代にその調査を個人で行い、「方言」という書を書いたのが揚雄と言う人でした。
ほとんどその生涯も知られていない人ですが、その功績は大きなものです。
漢字をどう読むか、これも中国では大切な問題となりました。
それは、押韻を伴う詩や文章が発達したためで、正確な韻を踏むことが文章作成の能力を示すものとなり、それを教えてくれる韻書や韻図というものの必要性が高くなったためでした。
韻書は早くも後漢の時代には各種成立していたようですが、その記述には相互に食い違いがありなかなか決定版が出なかったのでした。
ようやく、隋の時代になり、陸法言の著作とされる「切韻」が集大成として成立しました。
この切韻が登場すると、それまでの他の韻書は影を潜めたと言われたそうです。
ただし、この切韻は陸法言がまとめたものではなく、その父親の陸爽の著作ではないかという説もあるそうです。
しかし、陸爽は隋の皇室の跡継ぎ問題に巻き込まれ罪を問われたために名を隠したとか。
日本でも漢字の習得困難が問題となり、仮名書やローマ字化が言われたように、中国でもほとんどの人々は漢字などは読むこともできず、一部の知識人層のみが使うことができるという状態が長く続きました。
そのため、やはりローマ字化といった運動が起きたそうです。
しかし、それは困難という中国語の特性から、現在のような簡体字が採用されました。
ただし、少しやりすぎという批判はあるようで、元に戻すという主張もあるようです。
日本での文字の発達と言う問題とは少々異なる、漢字の母国中国での歴史でした。