爽風上々のブログ

熊本の片田舎に住むリタイア読書人がその時々の心に触れたものを書き散らしています。読んだ本の感想がメインですが(読書記録)、エネルギー問題、食品問題など、また政治経済・環境問題など興味のあるものには触れていきます。

「謎の漢字 由来と変遷を調べてみれば」笹原宏之著

漢字にはいろいろな謎があります。

その三つについて、詳しく調べていきます。

著者の笹原さんは日本語学者で、文科省文化審議会の委員も務めたという方ですが、漢字の問題はかなり不思議なものを含んでいると感じています。

 

その三つというのは、

JIS漢字というものがあるが、その中にはほとんど使うこともない漢字が含まれているがそれはなぜか。

歌舞伎役者の市川海老蔵の先祖で江戸時代の蝦蔵、團十郎のそれぞれの漢字について、巷間様々な話が流布しているが本当かどうか。

そして学校での漢字書き取りの採点でほんの些細な間違いまで✖にすることがあるとして問題になることがあるが、そもそも漢字の正しさというものはどうなのかを中国の漢字の由来から科挙制度での事情まで。

ということを調べていきました。

 

JIS漢字というのは、1978年に6300文字を選んで日本工業規格で定めたものですが、その中には通常ほとんど使われないものも含まれています。

たとえば嫐(うわなり)という漢字があります。

これはもともとは中国で作られたものですが、中国では使われなくなりました。

しかし日本では様々な意味で使ってきました。

それでも最近は普通の言葉には使われないために忘れられることになりました。

それがなぜJISには入ったのか。

実は、JIS漢字選定において大きな影響があったのが「地名」に入っているかどうかでした。

それ以前に国土地理院によってつくられていた「国土行政区画総覧」という資料がありました。

これには日本全国の小地名に至るまで収められており、当時はまだ使用されることのあった「小字名」まで含まれていました。

その中で、熊本県宇城市小川町西海東に嫐迫(わらんざこ)という地名があり、その日本でただ一か所の使用例のためにJISに入ったというものでした。

この嫐と言う字は歌舞伎十八番の中でも題名に用いられていましたが、もしもこの地名がなければ歌舞伎のその市川家のお家芸もパソコンでは打てない文字となるところでした。

 

泥鰌(どじょう)の鰌という文字は中国で作られた漢字です。

しかし日本に入ってきてからはそれに泥の字を足して泥鰌となりました。

やはり泥の中に住んでいることを意識して意味を足したのでしょう。

どじょうと言う言葉は歴史的仮名遣いもはっきりしないという珍しい単語だということです。

よく東京の泥鰌料理屋で、「どぜう」という仮名遣いで書かれていますが、本来は「どぢやう」の方が近いそうです。

しかし四文字では縁起が悪いとして、浅草の駒形で「どぜう」と書きそれが広まったとういうことです。

 

JISの中に地名に使われていた文字が入っていたために辛うじて今まで残ったという例をいくつも挙げられましたが、明治初期には政府が小字名までフリガナ付きでしっかりと報告させていました。

しかし姓名の文字・読み方については何の調査もされていません。

戸籍にはいろいろな異体字・略字が記されているのは良く知られていますが、その実態すら調べようともせず、コンピュータ化と称して消そうとしています。

文字を大切にしないと言われる中国や、ほとんどハングルにして漢字を使わない韓国でも姓の統計を実施しているのに、日本はそういったことには動かないようです。

 

令和になった頃に、その「令」の字の真ん中の横棒を点にするのは間違いだなどという話が出ました。

教科書会社の印刷字体では横棒なのでそれが正しいといった根拠程度だったのですが、結構それが広がったようです。

教科書の字体というのは、漢字の試験でも適用しており、それとちょっとでも違えば間違いといった採点をする教師もいるようです。

著者の笹原さんはその問題を審議した漢字小委員会で指針のとりまとめにも関わったのですが、そこで非常に多くのことを考えさせられたとのことです。

漢字に本当に正しい字、誤字などと言うものがあるのかどうか。

もしも正字というものがあるとするならその根拠は何か。

それは非常にあやふやなものでしかないのですが、それでも皆が違う文字を正しいと言い出せば通用しなくなります。

字体の正しさなどといってもそれは楷書の場合に限ります。

楷書というものが現れたのはかなり後の時代になってからで、六朝時代(南北朝時代)になってようやく隷書から派生する形で楷書が出現、唐代になって完成しました。

殷の時代に甲骨文字で生まれた漢字は篆書、隷書と移りようやく楷書になったわけです。

しかしそこには正しい字体などと言うものもなく、皆がそれぞれの流儀で書いていました。

その後、科挙という役人の選抜試験制度ができ、そこでは統一した書き方、用い方でなければ試験ができないということから一応は基準となるものを定めたようです。

しかしその採点も採点者の恣意に任せるものであり、いろいろな問題があったのでしょう。

 

日本では中国から漢字が伝えられたのですが、漢字を正しい字体で書くという要件はあまり問題とされず、書体の巧みさや美しさばかりに興味が集中していました。

しかし明治以降になって過度な規範意識が教育界に蔓延し、とくに戦後になって漢字はしっかり見なければと採点者が細かいところまで問題とするような状況になっていきました。

漢字の本質から離れた本末転倒と言うべきものでしょう。

 

専門家中の専門家というべき著者の、漢字と言うものに対する思いが伝わるような本でした。