博多祇園山笠といえば、博多総鎮守の櫛田神社への奉納神事で、毎年7月1日から始まり15日明け方の「追い山」でクライマックスを迎える祭として有名です。
その起源は800年近く前の鎌倉時代に遡るという記録もあるそうですが、その後さまざまな変遷を辿り現在の形になりました。
そのためか、これまでも全体を紹介できるような資料が少なかったようです。
西日本新聞社と福岡市博物館がその持てる資料と知識を持ち寄り、祇園山笠の全体像を描いたと言うものです。
祇園山笠は博多の町民にとっては非常に重要な祭祀であったため、古くから数多くの絵画が描かれ、さらに明治期以降は写真も多く撮影されてきました。
こういった絵画、図版、写真を本書冒頭に掲載しています。
これらの絵画では、その細部までの描写も残されており、当時の山の実像、祭の運営方法等、絵画から読み取れるものも多いようです。
次章には祇園山笠小史として、まとめられています。
起源には諸説あるようですが、多くが支持しているのが1241年(仁治2年)説です。
この年、博多では疫病が流行したため、祈祷をしたのが始まりということです。
戦国時代には続いてはいたのでしょうが、戦乱の中で大きなものはできなかったのでしょう。
しかし、江戸時代に入ると安定した社会の中で祇園山笠も大きく発展していきます。
それが明治維新を経て明治新政府ができると、山笠も大きな危機を迎えます。
明治5年には福岡県から山笠等の祭の禁止令が出ます。
ようやく明治16年に復活しますが、その頃には電信・電話線、電灯線などが街中に張られるようになり、舁き山ができなくなるという事態になります。
そのために、明治31年には再び山笠中止を県知事が命令するということになりました。
この結果、飾り山笠と舁き山笠の分離と言う、現在の形になるきっかけでもありました。
その後も戦争時の空襲で町がほとんど焼けてしまったり、その後の区画整理で町の区域が変わったりと大きな危機もあったのですが、文化財としての価値が評価されるようになり今日の隆盛へと向かったのでした。
続いて、町ごとの法被や手拭(てのごい)の図柄や、各流(ながれ)の紹介等々、祇園山笠を理解する上では重要なものが紹介されています。
さらに山笠用語事典まで備え、この本を持っていれば山笠のことは何でも知ったかぶりできるのではと思わせるものでした。
事典の中で、誰もが興味を持つ舁き山笠の舁き手(かきて)の交代について
舁き山笠の重さは約1トン。26-28人で舁くとしても、一人が走れるのはせいぜい50メートル。余力のある間に離れないと、特に表の舁き手は危険だ。転んだら山笠台に巻き込まれる恐れがあるからだ。離れた棒の位置にはそのポジションを得意とする次の人が入り、これを繰り返して山笠は前進する。よく見ると、6本の棒は外側の一番棒が地上から高く、内側の三番棒が低い。二番棒がその中間。背の高い人も、低い人もそれぞれに合ったポジションがあるのだ。
非常に懇切丁寧な説明かと思います。
もう半世紀以上前になりますが、小学生の頃に父の仕事で福岡に住んだことがありました。
町々に飾ってある飾り山を見に行った覚えはありますが、追い山などは「あんなものは子連れで見に行けるものではない」と言う父の考えで見にはいけませんでした。
祇園山笠の全容がわかったのは、福岡を離れてしばらく経ってからのことでした。
しかし、当時父がつぶやいていた「この時期になると仕事にならん」という嘆きが懐かしく思い出されます。