小学校の頃に福岡で過ごしたこともある私にとっては博多というのは懐かしさもありまた九州第一の都市としていろいろな関係もあるところです。
その博多の主に歴史的な発展過程について、長崎生まれながら九大を出て福岡大名誉教授と言う著者が解説をされています。
博多の地と言うのは、志賀島で漢の金印が見つかったということからも分かる通り、弥生時代から人が多く住み文化も栄えていたことが見て取れます。
その後も、大和時代、奈良時代、平安時代とすぐ近くの大宰府とともに九州北部の重要拠点として大きな存在であり続けました。
蒙古来襲の折には博多は最前線となりました。元寇防塁というのはまだ付近に残っており、かつて見た記憶もありますが、博多を砦とした防御は固くそれ以上の侵攻を許さずに暴風で元軍が自滅するまで持ちこたえました。
しかし、近代に続く博多の繁栄の基になったのは室町時代からの商人の活躍によるもののようです。
鎌倉時代までは博多の商人といっても中国から来た人々が主となり中国貿易をしていたのですが、その後は日本出身の人々が支えてきたようです。
やはりかなりの自治体制を整え、大名との関係も取りながらやってきたのですが、戦国時代も終わりに近づくと秀吉に近づくものもあり、それがその後の福岡城主として入城した黒田氏との関係に続くものとなりました。
なお、江戸時代でも初期には幕府の鎖国令にも関わらず朝鮮などとの貿易をひそかに行うものもあり、捕らえられ処刑されたものもあったそうです。
黒田藩の博多支配というものも、商人の繁栄のために行われていたようで町人文化も栄えたようです。このあたりは隣藩の細川肥後藩とは違いがありそうです。
博多の商家もごりょんさんという奥さんが支えているもののようです。著者は女性ですが、商家に話を聞きに行く機会も多かったのですが、一応男性の主人に約束をしても訪問すると逃げてしまっていることがあり、残っている奥さんに話を聞くことが多かったようです。そして、その方が話がうまく聞ける。すなわち実質は奥さんが取り仕切っているということがあるのではということです。男は外で祭のために走り回っていても商売は何の不都合もないというのが本当のところなんでしょうか。