「人は見た目が9割」という本が結構話題になりましたが、これはその著者が書いた続編のような本です。
前作はその題名からの印象で、「美人は得だね」というだけの本かと思い、まったく触れても見なかったのですが、実は「非言語コミュニケーション」と言うものを扱ったものだったそうです。
著者は劇作家、演出家としても活躍する一方、大学で演劇を教えてもいるという人ですが、そこに共通しているのが「非言語コミュニケーション」つまり仕草や表情などで相手に与える印象というものを操作するということです。
これは、当然のことながら俳優という職業の人たちは意識的にしろ無意識にしろ、工夫を重ねていることなのですが、それ以外の人はほとんど考えもしないことのようです。
そして、それを意識的に向上させることができれば、相手に与える好印象が倍増し、それで「見た目で選ばれる」ということになります。
前作もこういった内容であったようですが、編集者からのアドバイスで題名を決めたためやはり私と同じように誤解した人も多かったようです。
「一目惚れ」と言うものは間違いなく存在するものですが、これは単に「美女・美男子」であるからというのではなく、「自分にとって魅力的」であることを瞬間的に判断するからだそうです。
そこでは、表情を読むということを無意識に行なっています。
著者は職業柄、多数の人と初対面で会うということを頻繁に行なっていますが、それらの中には「表情の読めない人」も相当数居ます。大企業の社員などはそういった人が多く、これは「表情を見せない」ことを普段から訓練しているからです。
一方、俳優などは表情を見せなければ話にならないのでそれを見せると言うだけでなく、表情を自分の思い通りに作るということもするわけです。それが演技の訓練でもあります。
しかし、ベテラン俳優といえど、自分の後ろ姿がどう見えるかということは分かりません。そのためにも演出家と言う人たちからの指摘が必要になるそうです。
「見た目」と言う言葉を本書でも主題としていますが、じつは「見た目」と言うものは相手にしか分からないものなのです。
したがって、自分の見た目がどうであるかということを感じるためには、自分を見てくれる相手の感情を推し量るしかありません。
そのため、そういった心理的な働きを使う必要がない人たち、大学の先生などはこの能力がかえって衰退してしまい、自分の「見た目」に無頓着な人も多いようです。
これは能の創始者とも言える世阿弥の言葉にも残っており、「我見の見」と「離見の見」と言われているそうです。つまり、自分が見る自分の像「我見の見」だけでは芸は判断できず、離れたところから見る観客の「離見の見」を意識していなければならないということです。
前書「人は見た目が9割」がヒットした頃、メディアでも取り上げられることもあったそうですが、その中で、「見た目を気にしすぎて子どもも整形手術」なる記事があり著者も驚いたそうです。
「見た目」と言う言葉が誤解され、単に「美醜」という意味だけで使われてしまった。
美醜というものはどうしても人の外見を左右しますが、実は若い頃に美人と言われてちやほやされた人ほどその感覚のまま年を取り、中年以降にはただ痛々しいだけになる例が多いようです。
かえって、普通以下の外見でも周りから自分がどう見えているかを意識して、表情や仕草など「見た目」を磨くように努めている人の方が最後には勝つのかもしれません。