爽風上々のブログ

熊本の片田舎に住むリタイア読書人がその時々の心に触れたものを書き散らしています。読んだ本の感想がメインですが(読書記録)、エネルギー問題、食品問題など、また政治経済・環境問題など興味のあるものには触れていきます。

「県境、境界線 92の不思議」浅井建爾著

著者の浅井さんは地図・地理研究家ということです。以前に「日本全国県境の謎」という本を出版され好評だったのでさらに本書を上梓したということです。
県の境、県境と言うものはいろいろな話題を抱えていますが、これらの問題の多くは明治時代の初期に廃藩置県を実施した際の混乱で生じたものが多いようです。ちょうど最近都道府県などについて考える機会もあったのでその参考になるかもと思い読んでみました。
もちろん、この本の主要な目的は現在の県境にまつわる話題ということですので、少し重点が異なるのですが、十分に役に立つものでした。

明治維新のあと廃藩置県が行われたと一口で言っても、実はその経緯はかなり複雑なもののようです。討幕が終了した直後は、朝廷側の大名はそのままで幕府領と幕府側の大名領を政府直轄地としました。そこに「府藩県」というものを置いたのが1868年慶応4年だったそうです。しかし残った朝廷側に立った大名の領地はそのままであったので政府の方針にも従わず、そこで1869年明治2年には残った大名領も政府に返す版籍奉還ということを実施しました。しかし、名目上は政府に返すといっても藩主はそのまま知藩事となりそこに残ったので体制は変わりませんでした。
そこで、1871年明治4年に在藩の知藩事すべてを皇居に集め、クーデターとも言える手法で廃藩置県を実施したそうです。幸いほとんど抵抗もなくスムーズに進みました。
この時に成立した県は261です。以前の府藩県と合わせて3府302県となりました。
しかしあまりにも小さい県ばかりであるので、大規模な統廃合を繰り返しどんどんと減らしていきました。わずか半年で70ほどになるのですが、現在とほぼ同じになった秋田・山梨・高知などもありましたが、今とはまったく異なる名称・領域の県も多く、置賜、新川、足羽、深津など地元の人でなければどこにあるのかもわからない県も多かったようです。

なお、その当時から県名には旧国名はまったく使われていませんでした。これは意識的に行われたもののようで、やはり新国家建設と言うことで旧名称は避けられたのでしょう。基本的には県庁が置かれた都市名、またはその属する郡名が使われました。
その後も統廃合の移り変わりはめまぐるしく、四国など愛媛高知の2県だけになった時代もありました。島根・鳥取も1県にまとめられた時があったそうです。参議院の選挙区改定で県を合わせる合区がされるといって大騒ぎされていますが、昔はそうだったと言えなくもないことでした。
ようやく現在の状況に近くなって落ち着いたのは明治も中期になってからだったようです。

現在の都道府県というものは、奇しくも昔の国(律令時代の枠組みによる)に近いところがかなりあります。群馬・栃木・長野・熊本と四国四県はほぼその領域ですが、愛知・広島・山口・鹿児島は旧の2国が1県となります。
しかし、兵庫県は実に6国からなっており、この6国の名前をスラスラ挙げることができる人も珍しいくらいだそうです。

県の境というものは山脈や川であることが多いのですが、瀬戸内海では無数の小島があり、そのいくつかの島には県境がある島がいくつもあるようです。これは境界を島の中に置くということで明示し、境界争いを防ぐためであったそうです。県境ばかりでなく市町村の境でも必ず起きてくる問題ですが、入会地の草木の採取の争いや漁業権の争いなど、どこでもいつでも頻発していた争いのために裁定する政府も仕方なく実施したことのようです。
また飛び地というものも数多く、これは江戸時代の名残ということもあり、また河川の流れの変化にも由来することもあるようです。
また、境界線未定というところも相当あり、これも山の中が多いのはもちろんですが、東京でも数か所あるということで、面倒なことは手を付けたくないという人の心がよくわかる問題になっています。

しかし、これだけ全国各地に境界線を巡る問題があるというのは、やはり昔から人が多すぎてあちこちで衝突もあったからなのでしょう。因業というものを感じさせます。