「オーラル・ヒストリー」というものが何かということは全く知りませんでした。
著者によるその定義は「公人の、専門家による、万人のための口述記録」であるということです。
イギリスなどでは引退した政治家などが回顧録といった形の著述をする例が多いようです。しかし、日本ではそのような習慣はなく在職中に知り得たことは明かさずに墓場まで持っていくことが美徳といった風習があるようです。
しかし、それでは公的な記録だけでの歴史の解釈しかできず、それぞれの場面での担当者の判断というものの本質は理解できないでしょう。
そのために欧米ではそれらの人々から情報を聞き出す手法としての「オーラル・ヒストリー」の記録ということが進んできました。
著者は現代史研究者としての立場からこのオーラル・ヒストリーというものが必須であると考え、日本でも進めてきたということです。
欧米での伝統と格段に違う日本では高度経済成長期までほとんど全ての決定が匿名のもとでなされたも同然であり、歴史的な回顧に耐えられるものではありません。
しかし、90年台に入って自民党一党政治が終焉したことの影響でようやくこれらの記録を残しても良いと考える人も出てきたようです。
まあほとんどの人はそう考えず、著者がオーラル・ヒストリー聴取を働きかけても拒絶されるばかりだったようですが。
オーラル・ヒストリー聴取を進める点で誤解があるのが、話者が話すことに議論をしないということのようです。
政権に関わった人の話には多くの人が疑問を持つ点も多々あり、それらを発表すると「このような話をただ聞いただけなのか、反論はしないのか」といった批判が多く寄せられたそうです。
しかし、オーラル・ヒストリーというものはその場での議論はせずに話者が話し通りを記録するべきものだそうです。
その内容に関する議論はオーラル・ヒストリーがまとまってから外部でやれば良いだけの話であり、その場で話者と議論を始めるとほとんど進まないまま終わる事になります。その辺がジャーナリストのインタビューとまったく異なる点です。
著者は数々のオーラル・ヒストリー聴取にあたってきましたが、その対象との関係の構築は非常に難しいものであり、相手が気持ちよく話せる環境を作っていくのですが、時には話者が「嘘をつく」ことも多かったようです。やはり本当のことは話せないという事情が多いのでしょうが、それも聞き手はおかしいと思ってもすぐに否定してはいけないそうです。
また同じように見えるもので、「ノンフィクションライターのインタビュー」というものがありますが、これもオーラルヒストリーとは根本的に相違があります。
実はこのようなノンフィクションライターの取材を受けた人は非常に心証を害している例が多く、その後のオーラルヒストリーの依頼も断りがちとか。
中には相手を怒らせて話を引き出すというライターもおり、著者の姿勢とは大差があります。
どちらが良いということはないのですが、場を荒らすだけのようにも見えます。
著者が内閣官房副長官を長く務めた石原信雄氏の聞き取りをした結果は単行本にもなったのですが、それが記事として発表されたものを総理官邸担当の新聞記者たちが皆参考にしていたそうです。
このような記録がなければ本当の意味での政策決定のことが分からないということでしょう。
現代史を構築していく意味でもできるだけ広くこういった記録を残していく意味が強いのでしょう。
なかなか意味の深い本を読むことができました。