爽風上々のブログ

熊本の片田舎に住むリタイア読書人がその時々の心に触れたものを書き散らしています。読んだ本の感想がメインですが(読書記録)、エネルギー問題、食品問題など、また政治経済・環境問題など興味のあるものには触れていきます。

「曲り角の日本語」水谷静夫著

著者は国語学者で、国立国語研究所のあと大学教授を勤めながら「岩波国語辞典」の編纂にもあたったということです。
だからこそ、現在の日本語が単に「乱れている」などという程度のものでなく「曲り角」という認識が強いのでしょう。
たまたま、著者が体調を崩して救急搬送されて入院し意識を取り戻したときに、隣のベッドにいた高校生と友達の会話が、助詞・助動詞の部分はなんとか聞き取れても他の部分はまったく理解できずに愕然としたということです。
この辺の変化の原因としては、実は政府が進めた国語改革なるものの要因もあったということは著者の主張です。

著者は国語辞書編纂の経験も長いところから、言葉の変化というものも理解していますが、辞書に載せるものとしてどこまでを取り入れるかということは難しい問題であり、あまりにも芸能界のスラングなどに引っ張られるとすぐに消えたりもするようです。
「煙草銭」や「キセル」といった言葉はすでにその意味がまったく理解できなくなってきています。時代の変遷といってしまえばそれまでですが、ほんの少し前の文芸書も理解できなくなります。

「自主」と「自発」という言葉の使い分けもできなくなってきつつあるようです。本来は「自発」というべきところに「自主」を使うようで、自主避難などというのも自発避難というべきとか。

敬語の乱れということも広く言われていますが、これも「敬語」というものの解釈からしておかしな点があり、敬意といったものが無くても使われておりその点の理解がないことが敬語の乱れということにもつながるのではないかということです。
そのために、著者は「敬語」ではなく「待遇語法」と呼ぶべきではないかということです。あくまでも話者と対象との「待遇」を表すことだからだということです。
現在の敬語表現がおかしいのは、話し手が「責任回避」をしたいという意識から使われているからだということです。敬意から発しているわけでもなく、著者の言うような「待遇のわきまえ」という意味でもありません。そこから出てくるのがおかしな点です。

著者のユニークな主張はこのまま行けば21世紀の終わりにはどのような日本語になっているかということを予測したところです。
これまでもそのようなことを発表している人もいるようですが、あくまでもその人の勘だけで作ったものであまり裏付けのあるものでもないのですが、著者は時系列的な変化をまとめて延長するという技法を提唱しています。
それによると、格助詞のゆらぎがさらに増え、「に」「で」の混乱が増加し、「する」「しる」が名詞に付くだけの動詞的運用が増え、命令形が消えるといった例が挙げられていますが、まあひどいもんです。
最後に、21世紀末の国語学論文の例というのがありますが、まあそんなものになるんでしょうか。幼稚な感じは否めません。

まあ、もう「曲り角」ではなく曲がってしまったように思いますが。