拉致されてから北朝鮮で暮らしていく中で、言葉も徐々に勉強していったのですが、この本を読むとその言語学的な分析力は非常に高いものと見られます。
韓国語と日本語は、その基本的語彙がまったく違うものの、文法などは非常に似ているということがよく言われます。
しかし、発音の違いは大きいものですし、似たように見える文法の細部にも若干の違いがあるようなのですが、この本のそこのまとめ方と説明の仕方というものは非常に優れていると感じられます。
なお、もちろん蓮池さんが取得した言葉は、北朝鮮でのことですので「朝鮮語」と言うべきものかもしれませんが、御本人の意志でしょうか、「ここでは”韓国語”で統一する」とあり、そこには深い恨みが感じられます。
また、随所に拉致後に言葉を覚えていった状況が語られているのですが、どうも北朝鮮側が拉致被害者たちに言葉を教えていると言う姿勢が見えません。
あたかも蓮池さんが自主的に勉強しているだけのように書かれています。
本当かどうかも不明ですが、もしも書かれている通りだとすれば、蓮池さんたちを「拉致して何をさせたかったのか」が分からなくなりました。
まあ、それはともかく、内容については、かなり高度なレベルのものと見えます。
とても簡略に紹介するというわけにも行きませんので、印象的なところだけつまみ食い。
日本語と韓国語は文法的によく似ているということですが、それでもやはりいくつか例外があります。
これだけはしっかりと押さえておかないと、落とし穴があるようです。
たとえば、「助詞」というものが大きな役割を果たすということは日韓両方に共通であり、しかもその助詞のほとんどが同じような使われ方をしており、さらにニュアンスまで類似したものが多いのですが、重要な部分で例外があるとのことです。
また、敬語の構造というものも日韓でよく似ていますが、大きな違いがあり、それは絶対尊敬語と相対尊敬語というものです。
日本では、自分の親や会社の上司について話すときに、対外的には敬語を使わないというのが当然であり、間違えると教養を疑われます。
たとえば、「私のお母さんからいただいた」とか「うちの社長さんが外出されています」などと、外部の人に向かって話すことはできません。
しかし、韓国では自分の父母や祖父母に対する敬語を外部に向けても使うのが当然だそうです。
この上下関係の絶対化というのは、儒教をより濃密に受け入れた韓国の歴史的な経緯から来ているとか。
なお、自分の親族の上下関係を外部にも使うということの裏返しとして、「相手方の目下のものに丁寧語を使わない」ということもあるようです。
たとえば、取引先の社長の子供(未成年)に対して、日本なら尊敬語まで使う場合もあり、少なくとも丁寧語は絶対に使うでしょうが、韓国では使わないとか。
文法的にはかなり似ているという韓国語ですが、発音は相当違いそうです。
子音も母音も違うものが多いようで、かなり意識して勉強していかないときちんと通じるような言葉が話せないそうです。
ただし、それは「日本語にはない」のではなく「日本語では意識していないけれどある」のだそうです。
たとえば、「魚(うお)」「海(うみ)」の「う」の音の発音は違うということを、日本語話者は意識せずにやっています。
この差が、韓国語における「ウ」「ユ」(正確にはこうではありません)の違いと同様なのだそうです。
したがって、日本人でもできないはずはないのですが、やはり意識的に真似しないとできないとか。
なかなか良くできた韓国語教科書と言うべきものでした。