爽風上々のブログ

熊本の片田舎に住むリタイア読書人がその時々の心に触れたものを書き散らしています。読んだ本の感想がメインですが(読書記録)、エネルギー問題、食品問題など、また政治経済・環境問題など興味のあるものには触れていきます。

「敬語は変わる 大規模調査からわかる百年の動き」井上史雄編

敬語が乱れているなどと言われます。

しかしその実態はどうなのか、あまりきちんと調べられていないようです。

 

実は、国立国語研究所を中心にすでに戦後すぐの頃から3回にわたって敬語の使用実態調査が行われていました。

愛知県岡崎市を舞台に約20年おきに行われたものです。

第1回は1953年、第2回が1972年、そして第3回が2008年に実施されました。

それぞれ面接式で、さまざまな状況で「こういった場合にどう話しますか」といった質問をして答えてもらうというものです。

 

それぞれの回ではその時点で幅広い年齢層の人を選んでいますので、第1回で70代という人は1890年代の生まれ、第3回で10代という人は1990年代の生まれと、実に100年という差のある人々の敬語使用状況を比較できるというものになりました。

 

この本では国語研究所や大学で言語学を研究していて、調査プロジェクトに関わった人たちがそれぞれの研究分野から調査結果をまとめたものです。

さらに、敬語と方言といったところまで広げて解説をしているところもあります。

 

敬語は崩れている、乱れていると言われますが、歴史的に見れば古代からどんどんと変わり続けており、その変化が今でも続いています。

また地域的な差も非常に大きく、もともと敬語の発達が進んでいた近畿地方を中心にした西日本と、さほどでもない東日本をまとめて「西高東低」と言われていますが、調査対象であった愛知県岡崎市はその境目のような場所であり、その要因からくる影響も結果に現れているようです。

 

「若い人の敬語が乱れている」とよく言われますが、実際には敬語は年をとるごとに徐々に身に付くものであり、子どもは敬語は使えません。

それが今であれば中高生あたりから徐々に使い始め、ようやく社会に出てから本格的に使うようになるので、若い人が敬語が使えないのは当たり前の話です。

それを何とかしようと、接客業ではマニュアルで教え込むので「マニュアル敬語」が問題となりましたが、マニュアルの作り方の良し悪しはあるものの、これ自体悪いとは言えないようです。

 

敬語調査の注意点として、「この状況で何と言うか」を聞き、そこで敬語が使われていると判断しても、実際には違う場合もあります。

敬語は「相手との関係」が重要であり、それがその状況でその相手に使われた言葉であっても、「それ以外の人には使わない」ことが確かめられなければ敬語であるとは言えないのかもしれません。

実際にはその調査対象者は誰に対してもその言葉を使っているのかもしれず、「敬語は敬語でない言葉との対応においてのみ敬語である」という点が難しいところです。

 

また敬語の使用状況は同じ人物であっても年齢によって変わっていくということがあります。

岡崎調査で、1937年生まれの男性は第1回から3回まですべてこの調査を受けました。

「なじみの店に自分の荷物を預かってもらう」状況で何と言うかという調査に対し、

第1回目(16歳)では「預かってください」と用件のみ、第2回目(35歳)では「ちょっとすいませんが、荷物を預かってください」と店員への呼びかけが入ります。

そして第3回目(71歳)では、「ちょっとほかへ行きますので、保管しておいていただけませんでしょうか」と預ける理由も付けてさらにより丁寧な言葉づかいになっています。

このような同一人物の年齢による話し方の変化ということは、なかなか捉えることが難しいのですが、別の人物でも大量に調査することによってその傾向は見て取れます。

 

なお、岡崎市での調査では最初は住民票からの無作為サンプリングによって抽出された対象者への調査だったのですが、岡崎市は戦災にあい戦後は工業化により復興が進み、他からの流入者も非常に多くなりました。

そのため、言葉の面では「よそもの」が多くなり、その影響も強いものです。

同一個人調査では元からの在住者がほとんどだったのですが、その解析も必要になりました。

 

職業によって言葉が変わるのか。

素朴な印象としては、銀行員と肉体労働者で丁寧な言葉遣い、乱暴な言葉遣いはどちらかと言うとほぼ銀行員が丁寧と言うイメージでしょう。

それは岡崎調査でも裏付けられました。

その調査では、回答者の職業をおおきく「事務系」「接客系」「労務系」と分類しました。

これらの職業による敬語使用の傾向の違いは、3回の調査のすべてで丁寧さ、答えの長さはどれも事務系が高く、次いで接客系、労務系となりました。

接客系より事務系が高いというのは意外なことかもしれませんが、これには構成する年齢層も関わるようで、接客系の従事者は比較的若いということが影響しているようです。

ただし、丁寧さの指標として数値化した場合、最初の1回目調査より最近の3回目調査の方が全体として丁寧さが上昇し、かつ事務系と労務系の差も縮小しているようです。

つまり、全体として丁寧さが上がり、労務系でもかなり上がっているということです。

 

大きく敬語の歴史というものを考えます。

古代には「タブー」というものが敬語の対象であったものが、社会の絶対者に対する「絶対敬語」となり、さらに「相対敬語」と変化していきました。

そして現在は「敬語自体の丁寧語化」となっています。

身分制と言うものが無くなっていき、相手の身分によって話し方を変えるという敬語法ではなくなり、相手によらず丁寧に話すという丁寧語化が進んでいます。

これを言い方を変えると「自然物敬語、古代的絶対敬語」「身内敬語、中世的絶対敬語」「身内謙譲語、近代的相対敬語」「美化語、現代的敬語」となります。

これらは全国一律に変わってきたのではなく、地域によって違いがありそれが方言の敬語表現の差にもつながっています。

 

歴史的に見て敬語がもっとも進化したのは京都を中心とした近畿だったのですが、それが徐々に伝わってきて愛知県岡崎地方へも影響を及ぼしました。

愛知県では尾張地域と三河地域ではかなり異なるようで、近畿の影響の強い尾張と東日本の影響の強い三河とは違いがあるようです。

ただし近代化が進み東京が中心となっていくと逆に東京からの影響が表れていきます。

敬語の岡崎調査ではその過程が分かることもあるようです。

近畿方言の影響の強かった伝統的敬語は以前は強かったものの、徐々に減少しているようです。

 

このように非常に得るところの多かった岡崎市での敬語使用調査ですが、問題点も明らかになっています。

社会が大きく変化しているため、ある状況での言葉の使い方を調べるといってもその状況が大きく変わってしまったことがあり、正確には同じ状況とは言えないということがあります。

初回では「郵便局で電報を依頼する時」という状況設定がありました。

しかし、3回目ではすでに電報を依頼することはなくなったため「郵便局で振り込みを依頼する時」と変更しました。

もしも次の調査をするとしたら、その時には「郵便局で振り込み」ということは誰もしなくなっているでしょうから、何を設定するのか難しいものです。

 

また、この調査では3回連続で同一人を調べるパネル調査と、ランダムで選ぶ調査を並列させていますが、パネル調査の対象者は最初は434名居たのですがそれから36年後の2008年にはわずか20名に減ってしまいました。

言葉の変化と言う微妙で時間のかかる変化を追っていくにはある程度の時間が必要ですが、それにしても36年という時間は長過ぎたようです。

 

なお、この3回の調査はいずれも文科省からの科研費を最大の資金として行われましたが、これは調査のみに限られているため、調査終了後のデータ分析などは費用が出ないという問題点があります。

貴重なデータを有効活用するためにも安定資金が必要なところです。

 

非常に興味深い調査研究が行われていたということを初めて知りました。

こういったものが各地で行われていたらと思いますが、もうすでに遅いのでしょう。