爽風上々のブログ

熊本の片田舎に住むリタイア読書人がその時々の心に触れたものを書き散らしています。読んだ本の感想がメインですが(読書記録)、エネルギー問題、食品問題など、また政治経済・環境問題など興味のあるものには触れていきます。

「原子力報道 5つの失敗を検証する」柴田鉄治著

著者は朝日新聞で科学報道の始めの頃から担当してきており、原子力報道にも深く関わってきたということです。その体験から福島原発の事故はこれまでの原子力に関する報道というものが大きな原因の一つといえるということを主張しておられます。

「科学報道」というものは、実は原子力開発が始まるまでは「日本には無かった」というのが驚きでした。
原爆が広島・長崎に投下され多くの犠牲がでたのですが、その当時は敗戦国であり勝者のアメリカを批判するような記事も書けず、原子力に関する報道もほとんど無かったようです。
しかし、1954年に突然のような形で原子力予算が計上されるということになりました。しかもその同じ年にビキニ環礁での第五福竜丸の被爆事件が起きてしまいました。そこで否応無しに科学報道というものをスタートさせなければならなくなったそうです。
その始めの頃の報道には読売の正力松太郎も深く関わっており、原爆は悪だが平和利用は善という割り切りで国民もほとんど反対も無く受け入れてしまったようです。
著者もそのすぐ後に東大理学部卒業後に新聞記者となり科学報道に携わることとなったということです。

その後、しばらくの間(1960年代まで)は原子力報道はバラ色一色であったようです。人工衛星の打ち上げといった宇宙開発とともに、科学技術の発展として好意的な報道ばかりが流されました。東海村の原研設立にあたっては原子力の豆知識というPR記事を書いた自称「アトム記者」という人もいたそうです。そのほとんどはバラ色の未来を語っており、放射能の危険などはまったく触れられていません。この記事を小冊子にしたところ茨城県内では飛ぶように売れたそうです。
また、原子力饅頭や原研羊羹などといった土産物も売られていたというような雰囲気だったということです。
こういった風潮はその後、1969年に原子力船「むつ」の進水式皇太子妃(現皇后)が出席したり、また1970年の大阪万博でわざわざ敦賀原発から電気を引いて「原子の灯」だと祝ったということで、その頃までは続いていたということです。

しかし、1970年代になり急に原子力開発に反対する人たちが登場してきたということです。公害問題自体はすでに1950年代から始まっているのですが、日本ばかりでなく世界各国で1970年代になってから反原発運動が盛り上がってきたそうで、これには1969年のアポロの月着陸がきっかけになったのではというのが著者の意見です。
月から見る地球というのが小さなガラスだまのようだったという感覚が、地球環境の悪化に対する危機感につながったのではないかということです。私もその頃の報道は見ていますが、あの感覚はそれまでの地球観の変換につながったというのは肯けます。

その後、原発建設が広がることで反対運動も強くなり、さらに原子力船「むつ」の放射能漏れの事故があり、その対応のまずさもあいまってさらに反対運動が燃え上がりました。その反動で、原子力推進派がいわゆる「原子力ムラ」と化し安全神話を撒き散らし原子力開発自体がゆがめられていくことになります。
その当時の報道の問題点として、推進側より反対派に厳しかったということが言われています。推進側の論理を紹介するばかりの記事が連発され、反対派の主張はまともに取り上げられることが少なかったということです。
このときの新聞側の奇妙な事情として、推進側の取材は科学部が行い、反対派の取材は社会部や地方部が担当するということがあったという著者の証言です。科学部が技術のプラスマイナスを合わせて報道するのが当然であるにも関わらず、プラス面だけの報道を行ったのは大きな間違いだったということです。

さらにアメリカでスリーマイル島原発事故が起こりましたが、それでも死者はでなかったと強弁してしまいます。その後ソ連チェルノブイリ原発事故が起こり大きな被害が発生し、日本でも反原発運動が広がりますが、ソ連の特殊事情だとして日本の原発推進政策は変わらないままでした。
国民世論と原発推進政策の乖離は年々大きくなり、メディアも批判を強めるようになりますが、推進側にはまったく届かずにかえって原子力ムラの体質は強化されてしまいます。

1990年代に入り、一時的に原子力発電容認の世論が増えてしまいます。これは温暖化危機が騒がれたことで原発を認めるという雰囲気が生まれたようですが、その後JCOの臨界事故が起こってしまい一気に冷めてしまいました。
しかし、その後の政府の省庁再編の際にどさくさにまぎれて原子力行政の監督も経産省にまとめるということになってしまい、さらに推進派の体制強化になってしまったそうです。

科学報道の観点から言えば、地震についても正確なものでなければならないのに、東海地震の危険性ばかりが強調される歪んだ地震予知の政策をそのまま流す報道のために、地震が予知できるかのような幻想を振りまいてしまいました。阪神淡路が誰も予知できないまま起きて大きな被害を出したにも関わらずそのままの体制で東日本大震災まで来てしまいました。地震に関する研究は刻々と進歩し、大きな津波被害というのも分かっていたにも関わらず何の対策もしないままに大事故につながった福島第1原発は100%人災であると著者は断罪しています。
事故調査報告書が4編も出されるという異例の事態になりましたが、その中には「官邸の過剰介入が事態を悪化させた」ということが言われています。しかし、これは極めて怪しい主張であり、「東電の現場はがんばっていたのに」といったことは事実とまったく異なる点が多いということも言われています。

このように、福島原発事故につながった要因には報道の失敗というものがあったというのが著者の最大の主張です。
それは、原子力のバラ色面ばかりを報道した1950年代からの第1の失敗、次に反対派が登場した1970年代に推進側の絶対安全ばかりを流し反対派を非科学的と決め付けた第2の失敗、チェルノブイリ事故などで世論は反対に傾いたのに政策の乖離を衝かなかった第3の失敗、省庁再編に乗じて原子力を手中に収めた経産省の横暴を批判しなかった第4の失敗、そして福島原発発生以降、事実に肉薄することなく発表依存の報道に陥ったのが第5の失敗だということです。

メディアの科学無知というのは初めから今まで一貫して問題であり続けているようです。