東日本大震災時の福島原発事故については東京電力と政府の責任が強く問われましたが、報道の失敗というものもあったのではないか。
本書著者の柴田鉄治さんは原子力平和利用という動きが始まった1959年に東大物理学科より朝日新聞に入社し以来科学方面の報道に携わってきましたが、中でも原子力に大きく関わってきました。
その目から見て、これまでの日本の原子力に関する報道には「5つの失敗」があったのではないかとしています。
第1の失敗 1950年代から1960年代の原子力の特異性を軽視してバラ色の夢を振りまいたこと。
第2の失敗 1970年代、原発反対派が登場して対立を深めた時に推進側の「絶対安全」という非合理を衝かずに反対派を非科学的だと攻撃したこと。
第3の失敗 1980年代から1990年代、スリーマイル島、チェルノブイリの事故があり世論の反対が強まったのに政策と世論の乖離を衝かなかったこと。
第4の失敗 省庁再編時に原発の推進も規制も両方共に手中にした経産省の横暴を批判しなかったこと。
第5の失敗 福島原発事故が起きてからは事実に肉薄しようという努力もせずに「発表依存」に陥ったこと。
これらが原子力報道に関しての報道の「5つの失敗」だということです。
どれも大きな問題だと思いますが、現在の「政府べったり」の報道姿勢に比べれば大したことはないかのように感じます。
原爆報道も制限された終戦後から、いきなり原発調査予算がついて以来のバラ色報道など、他の本でも描かれていたことが多いので紹介は略しますが、印象深い描写はあちこちにありました。
朝日新聞社に科学部というものが設けられたのは1957年、他の新聞社でもほぼ同様の時期に同じような組織が作られました。
南極観測隊が昭和基地を建設、原研の1号炉が臨界に達する、ソ連の初の人工衛星スプートニクが打ち上げられるなど、科学関係の記事が社会をにぎわせた時代でした。
特に原子力開発についての報道は熱を入れていたようで、どこでも水戸の支社に科学部記者を配置し東海村の取材をさせるということになりました。
特に朝日新聞の木村繫はみずから「アトム記者」と名乗るなど力を入れていました。
彼が新聞紙上で連載した原発関連記事はその後小冊子とされたところ飛ぶように売れたということです。
著者は福島原発事故当時にはすでに現役を引退していましたが、その経過を息をのんで見守っていました。
しかし大きな疑問として、「だれが事故処理の指揮をとっているか」がまったく見えなかったということを挙げています。
スリーマイル島事故の時にはアメリカ原子力規制委員会のハロルド・デントン局長が事故処理全体の指揮をとりました。
しかし福島原発事故の場合は現地では東電の吉田所長が指揮をとりましたが、その上で政府や東電全体を指揮する者がいなければならなかった。
それを菅直人首相に問い詰めなかったのも報道の責任です。
ただ発表されることだけを流すだけの報道でした。
放射能が流れ出しているという状況ではあったものの、「現地」に行こうともしないのも報道としては責められるべきことでした。
規制されているからという状態を良いことにしたのか、取材させろと要求することすらなく、これもただただ発表されることを伝えることしかしませんでした。
ただNHKのETV特集取材チームだけが事故の4日目に現地入りして取材をし、番組を作り5月15日深夜に放送し、見た人には衝撃を与えたのですが、局内の上層部からは評価されるどころか禁止地域に立ち入ったということで「厳重注意」されたそうです。
本書執筆は福島原発事故翌年の2012年ですが、その頃でもすでに読売・産経・日経は原発推進になりました。
今ではもはや世論も原発再開を強く望むかのようになってしまいました。
報道は今でも大本営発表を流すだけでしょうか。