爽風上々のブログ

熊本の片田舎に住むリタイア読書人がその時々の心に触れたものを書き散らしています。読んだ本の感想がメインですが(読書記録)、エネルギー問題、食品問題など、また政治経済・環境問題など興味のあるものには触れていきます。

「核と日本人 ヒロシマ・ゴジラ・フクシマ」山本明宏著

核というものに日本人が触れたのはようやく原爆により広島と長崎を破壊されてからのことでした。

その後、様々な動きがあり現在に至っているわけですが、「核」というものに対する日本人の認識というものは一定であったわけではありません。

本書まえがきにあるように、

本書が試みるのは、マスメディアの報道や知識人の言説、世論調査、そしてポピュラー文化を通して、戦後日本における核の認識の変容を辿る作業である。

ということを目標にこの本は書かれています。

 特に、マンガの解析というものが多く表れています。マンガの読者は最近でこそ大人(いい大人)が多いもののかつては青少年がほとんどでした。そこでの核というものの描写というものは、かえって深く日本人の認識というものを示しているのかもしれません。

 

1945年8月の6日、9日、広島と長崎に原爆が投下され瞬時に数万人から数十万人の命が奪われました。この数も正確には確定できないというのが原爆被害があまりにも大きすぎることを示しています。

その後すぐに戦争は降伏することで終了し、米軍をはじめとする進駐軍による占領が始まります。

実は占領下では原爆の被害についての報道は占領軍による検閲で削除されたために、一般の日本人はほとんどそれを知ることはありませんでした。

一方、核エネルギーの平和利用という夢は、ちょうど1949年に湯川秀樹博士がノーベル賞を受賞したというニュースもあって広まることになります。

 

子供向けのマンガにも、核エネルギーの詳細を描くわけではないがイメージだけで「アトム」といった題名をつけたものも見られました。(のちの”鉄腕アトム”とは別)

 

ただし、その頃には米ソの核開発競争も熾烈なものとなり、1950年には朝鮮戦争勃発、核爆弾の使用も現実のものとなる可能性が強まりました。

そのような状況下で、もしも核戦争が起きればという危機感を持って小説やマンガを発表する人も出てきます。

 

1951年に講和条約締結し進駐軍の占領が終了します。

これで核に関する2つのことが解禁されます。

それは、「核エネルギー研究開発の解禁」と「原爆報道の解禁」でした。

核の平和利用を目指した研究開発の進め方が議論され、1954年には「原子力三原則」を日本学術会議で議決します。

また、原爆被害者の苦悩を描いた映画や小説なども数多く出るようになります。

被爆者という人たちがその後もほとんど支援もされないままという実態であることも知られてきます。

 

1954年にはさらにビキニ環礁におけるアメリカの水爆実験で第5福竜丸が死の灰を浴びて被爆するという事件が起きます。

被爆者に死者が出るとともに、放射能を帯びたマグロが流通していたという事実も知られ、日本国内でも大きな危機意識が高まります。

これに対応し、原水爆禁止署名運動が大きな広がりを見せます。

 

放射能への恐怖が産み出したものが、その年に公開された「ゴジラ」でした。

ゴジラは水爆により放射能を身体に帯びています。その映画には核兵器廃絶の祈念が込められていました。

 

原水禁運動は広がりを見せたのですが、同じ時期に原子力平和利用という動きも大きく広がっていきます。

「おそろしいもの」を「すばらしいもの」に変えていくべきだという論調は、読売新聞に限らず他のメディアにも見られました。

鉄腕アトム」の出現も、このような核平和利用の一環でした。

このようなマンガはアトム以外にも数多く表れていました。

 

1957年には日本原子力研究所で実験用原子炉での臨界実験成功、原発建設への道を開きます。

1960年代以降には原発立地地域選定に入りますが、そこでは僻地の振興策と補助金を絡めた政策が繰り広げられます。

一方、平和利用といえど核の不安は大きいとする科学者たちも存在し、活動を広げます。ただし、そのような安全性論争は多くの人々の関心は引かず専門家の中の対立と捉えられました。

 

世界では核軍拡競争が激しさを増し相次ぐ核実験と実戦配備が続きます。

もしも核戦争が勃発すれば世界破滅ということがはっきりとしてきました。

一方、放射能被爆による影響では突然変異による超能力獲得といった夢物語も登場してきます。子供用マンガなどにはいくつも表れます。

1960年代にはステレオタイプ化までしてしまいます。

 

1960年代の経済成長によるエネルギー資源調達の必要性に認識は国民に広くひろがり、原発による電力確保ということが肯定的に捉えられます。

1969年に行われた世論調査では「原子力の平和利用をもっと積極的にするべき」が48%を占めると言う状態でした。

それは米軍の原子力空母の寄港ということが問題化してもなお変わらない世論動向にあらわれていました。

 

1970年代には原発建設が多数に、広範囲に進むようになりますが、それとともに原発に対する疑問も広がり始め、反対運動も生まれてきます。

原発で事故が起きているということが明らかにされ、その隠蔽体質も問題とされてきます。

そういったなかで1986年にソ連チェルノブイリ原発事故が発生します。

事故から3ヶ月後の世論調査では、原発推進に賛成する人を反対する人が上回りました。

ただし、それでも日本では現存の原発をどうするかという質問には、「やめるべきだ」はわずかに9%、「減らすべきだ」も13%で、ほとんどは「現状維持」という意見でした。

日本ではそのような原発事故は起こらないという安全神話が支配していたことが分かります。

 

その後も、マンガをはじめとするポピュラー文化というところでは、反原発をうたった作品が発表されていたのですが、それもいつの間にか消えてしまうようなブームで終わってしまいました。真剣なものでは無かったようです。

 

そのような雰囲気の中で福島原発事故が起きてしまいました。

その後一時的には反原発運動が盛り上がったものの、経済への悪影響という脅しにはすぐに反応して盛り上がりは消えてしまいます。

 

原発事故(だけではなく大震災のためでもありますが)のあとには「絆」という言葉が非常に多く使われてきました。

しかし、「連帯」と言うことを過剰なまでに唱えなければならないのには、そこまで日本社会の分断が進んでしまっているという状況を示しているからでもあります。

被災地の瓦礫受け入れに住民が反対したり、京都の五山送り火で被災地の松を燃やすと言うことにも文句がついたりと、その事例は数多いものでした。

 

原発の今後も、それに頼る原発立地地域と、それに気が付かないふりをする他地域の間で動き続けるだろうとしています。

 

核と日本人 - ヒロシマ・ゴジラ・フクシマ (中公新書)

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