秦との戦い、そしてその後項羽との戦いで優れた作戦を建言し劉邦の苦境を救いました。
その張良の若い頃からを描いた作品ですが、これも宮城谷さんのあとがきによれば、「史料をあたってもいろいろとわからないことがでてくる」ようで、史記をはじめとした史料やその他の文書を見ても相互に矛盾する記述があり、どれが正しいのか分からずに困ったということが多いようです。
まず、張良の生年、没年も怪しいもので史料によってその記述は大きく違います。
そんなところから検証を始めなければならず、人物を描くまでに相当な苦労があったようです。
本書は張良が20歳ほどの頃から始めます。
張良の家は代々韓の国の宰相を務めていた家柄で、父も宰相の地位についていたのですが、張良が幼い頃に亡くなってしまいました。
そのため韓の国がどんどんと衰えていき亡国の危機になった時もまだ張良は宮仕えをしていませんでした。
留学するために楚の国に赴き3年ほど学んだのですが、大した成果もなく帰国するとちょうど韓の公子の一人が秦王に招かれて出発するところでした。
それが韓非子で、その後の話は他の書にも詳しいところです。
韓非子は秦王に面会したものの重用はされず、そのうちに韓非子の才能に危機感をもった秦の丞相李斯により投獄されすぐさま毒殺されることとなります。
すでに国力に大差のあった韓は秦をとがめることもできず、やがて秦の大軍で攻め寄せられることとなります。
仕官していなかった張良は戦いに赴くことはなかったものの、家も襲われ逃れることとなります。
その際すぐ下の弟や家人たちも殺され、秦とその王に復讐することを誓います。
楚に留学していた頃知り合った豪族に倉海君という者がいましたが、その家に出入りしていた賓客に人相見が居り、張良をみて「王佐の才」がある、すなわち天下を治める王者の側近となると告げたため倉海君も張良には一目置いていました。
張良は韓の国が秦に滅ぼされると倉海君のもとに身を寄せます。
そこで大力の男と大きな鉄槌を作る職人を紹介され、その鉄槌を秦始皇帝に投げつけて暗殺することを企画します。
始皇帝暗殺の企みは他にも行われましたがいずれも失敗していました。
しかし始皇帝の全国巡行の際に通る可能性の強い博浪沙という地で待ち伏せし、鉄槌を投げつけるもわずかにそれて失敗します。
その後、張良は一味と共に逃亡することとなります。
なお、その頃に楚の国で乱を起こし逃亡したかつての将軍の子の項伯を危険を顧みず匿うのですが、それが後々まで関わることとなります。
張良の配下となった人々の中には方士という、呪術などを行う者たちがいたのですが、彼らがそろって東の方向に王者が興る兆しを見ます。
それを探し出し仕えることが張良の目標となります。
やがて始皇帝は死去、陰謀をもってその後継となったのが末子の胡亥で二世皇帝となりますが、すぐに世は乱れ陳勝呉広の乱に始まる大乱となります。
そんな中、わずかな軍勢を率いた沛公と出会いますが、それでお互いに認め合い、その後の深いつながりの初めとなります。
沛公劉邦は張良の優れた才をすぐさま見抜き、その後も張良の進言には逆らうことなく従い成功を収めていきます。
その最大の危機は項羽と別れて戦い先に秦の本拠地を落とし、項羽の疑惑を受けて攻められるところを謝罪をして許されたという、名高い鴻門の会でした。
この危機を察知しいそいで項羽の近くにいた項伯に頼み謝罪の会見を仕立てたのが張良でした。
その詳細も各書に詳しいところで、剣舞を装って劉邦を殺させようとしたものの成らず劉邦は逃亡に成功します。
その後も劉邦の中国統一を支えた張良は大きな領地を与えられようとしたのですが断わりわずかな土地のみを貰って引退しました。
その才なくしては漢帝国は成らなかったということでしょう。