秦の始皇帝といえば「焚書坑儒」という言葉でも有名であり、書物などは燃やしてしまえとばかりの反教養主義的な人物かという印象が強いのではないでしょうか。
しかし、中国でも西の辺境から国を強化し全中国を統一するという偉業を成し遂げたのですから、それには多くの書物から多くの知識を得たと考えるべきなのかもしれません。
そういった、始皇帝が読んでいたであろう書物とはどのようはものであったかということを組み立てていきます。
なお、当時の書物というものは実際には失われているものが多いのですが、断片的なものが伝わったり、引用された書物が存在したりということで現在からも推測することができるのですが、最近の中国での遺跡発掘で多くの史料が出土するという状況が続いています。
そこでは当時の竹簡などが発見されることも多く、それを検討するとこれまでの通説が大きく変化するということもあるようです。
この本ではそういった最新の情報も取り入れられています。
また、「書物」と言いますが実は始皇帝が読んでいたものは現在のような紙に書かれたものではなく、また布に書いたものも未登場でした。
それは竹簡や木牘と呼ばれるもので、竹や木を薄く削りその表面に字を書いてつなぎ合わせるというものでした。
その一片あたりの文字数もさほど多くはできず、そのため文字数を少なくしながらも内容を濃密にするように文章を練り上げるということが行われていたようです。
今のようにだらだらと冗長な文章を長く書くということはできなかったようです。
始皇帝が実際に読んだと記されて有名なものが、韓非子が書いた「韓非子」でした。
ただし現在の「韓非子」の全体を読んだとは考えられず、おそらく孤憤篇と五蠱篇だけであったと考えられます。
その孤憤篇は文字数1420で一枚あたり25字とすると竹簡57枚、五蠱篇は4008文字で160枚ということになります。
秦による中国統一後、宰相李斯の提案によって焚書が行われます。
司馬遷の記述によれば統一後に博士を招いて宮殿で宴会を開いたところ、淳于越の発言に怒って焚書坑儒を決めたとあります。
その中で、史記の秦始皇本紀には「詩書・百家の語」とありますが、李斯列伝には「文学・詩書・百家の語」を所持を禁止するとあります。
文学という言葉の有無が違います。
もちろん現在のような文学をliteratureの訳語として使っている状況とは異なり、当時は文字で書かれた学問一般のことを指していたようです。
詩書というのは儒学でいうところの詩経と書経、百家の語とは戦国時代の百家争鳴という言葉で表されるような諸子百家と言われる学問の書ということでしょう。
ただし、もちろん言われるままにすべての書を焼いたわけではなく、多くの書は家の壁などに塗り隠されたようです。
始皇帝も多くの書を読んでいたのだろうとは思いましたが、それが今のような書物ではなく竹簡を束ねたようなものだということは想像していませんでした。