爽風上々のブログ

熊本の片田舎に住むリタイア読書人がその時々の心に触れたものを書き散らしています。読んだ本の感想がメインですが(読書記録)、エネルギー問題、食品問題など、また政治経済・環境問題など興味のあるものには触れていきます。

「物価上昇に比例する賃上げ」の何が胡散臭いのか。

(以下の問題についてはまだまだ自分の考えがしっかりとまとまっていません。とりあえず今の気持ちを書き表しますが、間違いと気づく時が来るかもしれず、その場合は訂正もあり得ます)

 

物価上昇は止まる様子もなく続いていて、それに対して経済界に労働者の賃上げを要請する声が政界から聞こえてきます。

しかし大企業はそれに応えられても中小企業は難しいといったことも言われますし、年金生活者は迅速な年金アップなどは望むべくもなく、生活を切り詰めるばかりです。

そんなにまでして、なぜ2%の物価上昇と賃上げをしなければならないのか。

生活者の感覚から言えば収入も一定、物価も一定という方がはるかに気分が楽です。

そこには何か理由があるはずです。

 

人びとの中には完全に自給自足で何も買わずに生きている人もいないとは言えませんが、事実上ほぼ全員が生活のために収入を得て(あるいは財産を切り崩して)消費し生きているのでしょう。

貯蓄もまだ金利はほぼ無しですので、金利生活者というのは存在できない状態ですが、一応それも可能な事としておきます。

 

収入が一定で支出もそれに見合い一定(病気や事故、急な出費等も計算内のこととします)とすれば、物価一定という状態が定常に近いものとなります。

その時はGDPの成長というものもありませんので、成長率0ということになりますが、その何がいけないのかよく分かりません。

それに対し、物価が一定率で上昇していっても、全ての人にとっての収入もその比率と同率で増えていけば生活感は変わらないはずです。

ただし、その時には成長率もその上昇率と同じだけあり、一見経済成長しているかのように見えます。

経済成長至上主義、あるいは経済成長教とでも言うべき宗教の一種に洗脳されている人にとってはその状態が良いように見えるのでしょう。

 

しかしそんなうまい状態があるはずもありません。

インフレの状態というのはどんどんと色々な力の均衡が変化していくことであり、そこでは力ある者がより多くの果実を奪い、弱い者が奪われる、つまり現在のような状況になるわけです。

 

つまり、「すべての賃上げが物価上昇に比例する」などと言うことはあり得ず、強い者はより高い収入上昇率を享受し、弱い者はそれができないということです。

 

高度成長時代には非常に高いインフレ率であったが、給与も上がっていったという人がいますが、実態は全員がそうであったなどと言うことは無く、やはり弱い立場の人たちは取り分が少なかったわけです。

それで産業構造が徐々に変わっていくことが促されるという一面もあり、これは否定ばかりはできません。

給料の上がらない産業は徐々に退場するべきものであり、そこから成長産業に労働者も移動すれば良いだけの話です。

 

それが現在では、1製造業の下請け中小企業、2小売販売業、3飲食業、4運輸交通業、5介護福祉 といったところに当たります。

あれ?と思った人、いるんじゃないでしょうか。

これは皆、存在が必須の産業であり、これらの産業が退場してしまったら人々の生活は崩れ去ります。

そこにこの「2%インフレ必須の経済成長」のおかしさがあります。

 

自由主義経済で市場に任せていた場合にこういった生活基盤産業とも言うべき産業に十分な金が回らず、その労働者の給与も上げにくくなっています。

それを上げるためには何らかの強制力がなければどうしようもありません。

それを政治に求めるのか。

そんなことをすれば腐敗政治家が私腹を肥やす機会を増やすだけかもしれません。

 

このように、金の回りにくい産業の労働者の賃上げが思うようにいかなければ、物価上昇がひどくなるとそういったところの労働者の暮らしは厳しくなる一方です。

何が悪いのか、どうすればよいのか。

さすがにこれは難問でしょう。

その答が出たら、政権を取りに政界進出ができるかもしれません。