ヨーロッパの王たちは「綽名」というものが広く用いられていました。
「太陽王ルイ」とか「獅子心王リチャード」といったものですが、他にも多くのものがあったようです。
これは、ヨーロッパの風習として同じ名前を持つ場合が多く、ルイ13世、ルイ14世などと呼ばれますが、その時代ではそれでは分かりにくいためにその王の特徴をとらえた綽名というものが用いられるようになったものです。
中にはかなり不名誉なものもあり、本人が納得して用いられたものではないのでしょうが、うまく特徴を言い表している場合が多いようです。
10世紀の西フランク王国では、カロリング家とロベール家から王が出るという状態でしたが、結局はロベール家のユーグが即位しその後のフランス王家を確立します。
その綽名が「カペー」で、これは「合羽」に当たります。
日本語での合羽はポルトガル語からの移入ですが、それと同じ語源です。
通常はこの王は「ユーグ・カペー」と呼ばれ、「カペー家のユーグ」かと思いがちですが、実際にはロベール家のユーグであり、カペーというのは綽名に当たりました。
なぜ合羽なのかと言えば、当時の合羽は雨具というよりは聖職者や修道士の衣服と考えられ、ユーグも修道院長などを務めていたためだと思われます。
スラブ世界の最初の大公ともいえるのが、キーウ大公ウォロディーミル1世でした。
この名君は領土を四方に広げるとともに、キリスト教を受け入れ、聖大公と呼ばれました。
このキーウ大公国が現在のウクライナの原型と考えられます。
その頃はモスクワなどはありませんでした。
11世紀にノルマンディー公ウィリアムは海を渡りイングランドに上陸、当時のイングランド王を打ち破りイングランド王に即位しました。
これがノルマン・コンクェスト、ノルマン人の征服であり、ウィリアムの綽名も征服王となりました。
ただし、ノルマンディーではフランス語が用いられており、ウィリアムも「ギョーム」と名乗っていたはずです。
その綽名もフランス語で、「ギョーム・ル・コンケラン」であったはずです。
ただし、ギョームには別の綽名もあり、それは「ギョーム・ル・バタール」すなわち「庶子王」で、父親はノルマンディ公ロベール1世ですが、母親は庶民だったので正式な結婚はしていなかったようです。
キリスト教世界では庶子というのは非常に不利な立場に落とされるのですが、それをものともせずにノルマンディー公となりさらにはイングランドを征服したという、不屈の人生だったようです。
モスクワ大公イヴァン1世は「金袋大公」と呼ばれました。
14世紀のロシアはモンゴルによる征服が続き、キプチャクハン国の支配下にありましたが、モンゴル人は統治には関心がなく、税さえ納めれば良しとしていました。
その税の取り立てを請け負ったのがモスクワ大公で、それがロシア世界でモスクワが主役となっていく始まりでした。
16世紀の宗教戦争で内乱の続くフランスを治め、「大王」(ル・グラン)とも呼ばれますが、よく使われる方の綽名が「ヴェール・ギャラン」です。
これは辞書によれば「年甲斐もなくすぐ女に言い寄る年輩の色男」ということで、言わば「助平ジジイ」というものでした。
生涯に抱えた愛人は50人以上だったとか。
他にも耳にしたことのある綽名の理由がよくわかり、非常に参考になりました。