爽風上々のブログ

熊本の片田舎に住むリタイア読書人がその時々の心に触れたものを書き散らしています。読んだ本の感想がメインですが(読書記録)、エネルギー問題、食品問題など、また政治経済・環境問題など興味のあるものには触れていきます。

火力発電所のエネルギー収支(EPR)

火力発電所などのエネルギー収支(EPR)について具体的なデータがないかと思い探しましたが、かなり古いものが見つかりました。

1990年に当時の電力中央研究所所属の内山さんという方が論文ではなく総説として

おそらくエネルギー資源学会の会報に掲載したものと見られます。

http://jser.gr.jp/kaiin/JSER_BOOK/1990/11-366.pdf

古いデータですが、おそらく火力発電に関わる部分はさほど変わっていないと思います。

また太陽光発電などはかなり効率が上がっているでしょうが、それでも桁違いに上がっているとは思えません。

 

エネルギー収支の概念図が最初に掲載されています。

基本的な概念は普通の認識に近いものと思いますが、特徴的なのが「燃料」を横からの挿入のように記されていることで、このために「EPRは常に1より小さい」などと言うことにはならず、その結果よく見かける値が出ています。

 

この点についてはこれがおそらく当該学会の一般的な認識だと思います。

これを仮に「旧主流派」と呼んでおきます。

 

これに対し、「燃料のエネルギーを入れるとEPRは1以下になる」というのは、やはり当時としては異端の議論だったのでしょう。

また、投入エネルギーとして燃料の採掘、精鉱、運搬等を算入しています。

石炭火力の場合はこれがかなり大きいようで、そのために投入エネルギーも大きくなり結果的にエネルギー収支の値も低くなっています。

 

このエネルギー収支の計算についての考え方により何通りかの算出方法がありそれによって結果も大きく変わります。

1,(旧主流派)投入エネルギーにプラント建設、燃料関係(採掘・運搬等)は参入するが、燃料自体のエネルギーは算入しない。

2,(異端派?新主流派)投入エネルギーにプラント建設、燃料関係に加えて燃料自体のエネルギーも参入する。

それに対し、私の考え方としては次のようになります。

真のエネルギー収支としては2に近くすべての投入エネルギーを算入すべきである。

しかし、現代文明を支えるエネルギー供給施設としての発電所のエネルギー収支を考える場合には、燃料関係(燃料自体のエネルギーに加えて採掘運搬等のエネルギー)を除外する。これを3の(2)とします。

この両方の値を参照することで現代のエネルギー供給と消費の姿を見ることができる。

というものです。

 

それでは具体的に発電所の建設、運転、出力のエネルギーはどの程度か。

その表の部分を引用させてもらいます。

ここで対象となるのが石炭火力の部分で、発電出力1000MWということですから、電力会社の大型発電所程度でしょうか。

 

エネルギーは電力換算で表されており、単位は10の6乗kWhです。

発電量は他との整合性を図るためか、装置の寿命が20年運転という控えめな数字となっていますが、火力発電所の耐用年数はこれよりはかなり長いものと思います。

一般的には60年とも言われていますので、発電量の数値はこの3倍と見なされます。

 

すると、年間発電量が6084として、60年で365040 という数値になります。

一方、建設エネルギーは初期のものだけとすると(修理や維持管理は含まない)1180、

運転エネルギーが52575

これでエネルギー収支を計算すると、 1の場合 6.8、 2の場合 1以下

そして私の考え方の3の(2)の方は 309.3となります。

以前にこの数字を具体的な数値なしの印象だけで数千としていましたが、さすがにそこまで高くはないものの300程度となりました。

 

ただし、「それに何の意味があるのか」が問題となります。

 

実はこれこそが現代文明が「エネルギー依存文明」であり、そのひずみが集中している部分だと考えます。

石炭の採掘や精鉱、運搬には非常に大きなエネルギーが必要ですが、それでもそのすべてを算定しても石炭自身が持つエネルギーに比べて低ければ電力発電としては成り立つことになります。

もちろん地中の石炭をどんどんと掘り出して次々と燃やしてしまうという行為が問題ではないのかといえば大きな問題です(温暖化だけでなく)

しかし実は現代エネルギー依存文明は石炭に限らず他の化石燃料についても同じような行為をしているのです。

「地中からどんどんと採掘し、それを使ってエネルギーを取っている」わけです。

 

そしてそのためには電力を得る装置として火力発電所というものが非常に効率的であるということになります。

 

上記論文の中の表には太陽光発電の装置の数値もあります。もちろん1990年当時のものですので、現在よりはかなり性能が劣るものです。

それによると、発電出力1MWのもので、建設エネルギーが21.3 (単位は上記と同じ)、運転投入エネルギーはないので0、それに対し出力は年間2.5で20年間で49.9(こちらは耐用年数20年がいいところでしょう)

そうなるとエネルギー収支が、2.34となります。

最新の装置はこれよりはかなり上がっているとは思います。

 

しかし、これを比較すべき数値が上記の石炭火力発電の「6.8」であるなら同じレベルのものといえますが、私の「火力発電の文明論的評価法」による数値「309.3」との比較は数百倍となってしまいます。

これが「太陽光発電では現代社会の必要エネルギーが賄えない」という理由になります。

 

このようなエネルギー収支(EPRとほぼ同じ概念?)を見た場合に、太陽光発電が一桁(最近は少し上がって10程度)であるのに対し、石炭火力もやや高い程度であるのが疑問でした。

そのような低い値の装置であっても、それでほぼすべての電力需要を賄っているのはなぜかという点です。

どうやら、上述のところがそのカラクリのようです。

つまり、燃料の採掘・供給にどれほどエネルギーを費やして、その結果エネルギー収支の値が低くなったとしても、電力として取り出すことができれば目的にかなうということです。

そしてその点が太陽光発電が逃れられない弱点を抱えている部分でしょう。

それについては今後さらに考えていきます。