フランスブルボン王朝のルイ16世の王妃で、フランス革命の際に処刑された王妃マリー・アントワネットはその境遇から贅沢の化身のように言われていますが、実際のところはどうだったのか。
彼女が何を食べていたのかということも、当時の王族の公開正餐(食事の光景を見せる)という習慣により明らかであるようですが、それも「王妃はあまり食べなかった」といった参列者の記録が残っているなど、どうもよくは分かっていないようです。
マリーアントワネットと言えば「小食」「マカロン」といったイメージが作られましたがそう簡単には片づけられないということです。
本の内容に入る前に、前から疑問に思っていたことですが、「マリー・アントワネット」と通常は呼ばれますが、フランス王妃を呼ぶ際には個人名と出身地名(または家名)を続けるものと思っていました。
アンリ4世の王妃がマリー・ドゥ・メディシス(メディチ家)、ルイ13世の王妃はアンヌ・ドートリッシュ(オーストリア出身)、ルイ14世の王妃がマリー・テレーズ・ドートリッシュ(オーストリア出身)であるのに、マリー・アントワネットはどちらもファーストネームのようです。
調べてみたら、本名はマリー=アントワネット=ジョゼフ=ジャンヌ・ドゥ・アプスブール=ロレーヌ・ドートリッシュ(フランス語読み)でした。
マリーからジャンヌまでの4つの個人名をつなげたのが個人名、アプスブール(ハプスブルク)とロレーヌは母と父の家名、そしてドートリッシュがオーストリア出身ということです。
長過ぎたので後半を略したのでしょうか。
マリー・アントワネットはまだ少女の頃にフランスの王太子のちの国王ルイ16世に嫁ぎます。
王太子の祖父の国王ルイ15世のもとで婚礼の祝典が行われますが、それはルイ14世時代以来確立されてきた王家の豪華な祝宴のルールに従ったものでした。
しかしマリーアントワネットはほとんど手を付けなかったと書かれています。
ブルボン王家の初代、アンリ4世やその子のルイ13世は大酒飲み、大食漢で知られていましたが、料理の完成度はまだまだといったものでした。
ルイ14世に至り王家の支配権が強化され、国の収入も王家に集中するようになり、王族の食事も豪勢に、そしてそれを公開して宮廷の権威を見せるために使われるようになります。
食事の内容から作法まで緻密に決められその通りに運ぶことが至上命令となりました。
ルイ15世の時代にもその規範通りに食事は執り行われていました。
また料理もジビエが多く並びその臭いを和らげるために香辛料や重いソースがかかるというものでした。
マリーアントワネットの生まれたオーストリアのハプスブルグ=ロレーヌ家では果物が多い「ナチュラルな」嗜好であったようで、それに慣れ親しんだマリーアントワネットにとってはフランス宮廷の料理というものは口に合わなかったようです。
ただし、この時期、すなわちルイ14世の最盛期のブルボン王朝から翳りを見せ始め、市民階級の興隆も始まっていた頃には、「ヌーベル・キュイジーヌ」という動きも起きていました。
ごく最近にもフランス料理にヌーベルキュイジーヌが起きていますが、その時に始まったというものではなく、これまでにも何度も見られたもののようです。
重いソースや過度の香辛料使用を控え、素材の質を楽しむということは一緒のようです。
この頃の料理の動きとして他にも「果物と砂糖」「瓶入りのワイン」といったものも現れています。
料理に簡素さを求めるという傾向も見られ、これらはマリーアントワネットの嗜好とも合うものでした。
しかしフランス革命の勃発により王妃の運命は暗転します。
国王とともに幽閉されたのですが、最初の頃は食事も豪華なもので、何皿もの料理が出てシャンパーニュやボルドーのワインも飲むことができました。
しかし国王が処刑された頃からは待遇が悪化の一途をたどり粗末なものとなりました。
処刑の日の最後に口にしたのはスープ一皿だったそうです。
蛇足ながら(と訳者が最後に付け加えていますが)、当時の料理のサービスはまだ現在のように一皿ずつ出されるものではなく、ポタージュ、アントレ、ロースト、アントルメ、デザートの各段階で料理がすべて食卓に運ばれて並べられたそうです。
そのセッティングも重要なもので、すべてが美しく調和するようにデザインされていました。
(ただし、列席の宮廷人たちは遠くの皿の物を取って食べることはできず、近くの皿の物だけを食べたそうです)