幕府といえば、鎌倉幕府、室町幕府、江戸幕府があり、武家が政権を取った時の政府の名前だというのが何となく学校の歴史で習ったというのが普通の人の感覚でしょう。
しかし歴史の専門家たちにとっては結構議論のあるところのようで、様々な学説が飛び交っているようです。
この本は「幕府」というものについて、様々な古文書や史料を駆使して議論を進めていきます。
ただし、その内容は非常に詳細かつ繊細であり、あまり素人向けの解説というものではありません。
その中では多くの歴史学者たちの学説に対して非常に厳しい批判もされており、歴史学界の中での討論といった性格の強い本だと思います。
なお、他の学者の説でも矛盾のあるものや基本的な史料を考慮していないものに対しては非常に厳しく批判をしており、著者の学者としての姿勢が厳しいことがうかがわれます。
そんなわけで、とても素人があれこれ口を挟むようなものではなく、また簡単に論旨をまとめるなどと言うこともとてもできません。
と降参しておいて、いくつか特に印象深いところを引用しておきます。
モンゴル来襲当時の文書に出てくる用語として、鎌倉幕府は「東関幕府」と呼ばれていたそうです。
そして室町時代に京都と東国であたかも国の分割統治のような形になったのですが、その時に東国の武家政権の呼称として「東関柳営」「東関幕府」「関東幕府」などと呼ばれていたのですが、室町政権を「室町幕府」と呼んだ例は見当たらないそうです。
「幕府」というのはあくまでも「東国に誕生した武家政権」を呼ぶ術語だというのが当時の感覚だったということです。
謀反、謀叛と二種類の書き方がされる「むほん」ですが、古代からの律の規定ではこれらは全く別の犯罪として認識されていました。
謀反は「単一国家内で起こる国家転覆計画」であり謀叛は「複数国家間で起きる離反計画」だそうです。
鎌倉幕府当時は王権というものが京都と鎌倉に並立していたと見なされます。
その呼び方として「花洛・柳営」と対立概念で呼ばれました。
そのため鎌倉幕府を「東関柳営」と呼ぶことがありましたが、これらの呼称は元寇以降のことでした。
日本において「中世」と「近世」がどこで区切られるか、様々な説が乱立しています。
著者はそれは一気に変わるわけではなくかなり長い移行期があったと考えていますが、それでも織豊期の中でも織田時代はかなり中世的な要素が残っており、豊臣時代に一気にそれらが変化し近世となったとしています。
織田信長は多くの改革をしたというのが一般的な印象ですが、実際には信長は中世的な感覚がかなり強く、言われていることでも変化などではなく中世的なものを少し違った見方をした程度のようです。
しかし秀吉は中世的要素を大きく変えてしまいました。
人の移動が非常に多くなるのも豊臣時代以降とのことです。
京都をめぐる騒乱でもすぐに飢饉となった京都という地域の性格が色々な事件の底に隠れていました。
京に住む人々の食糧は地方から収められる年貢などに頼っていましたが、それがちょっと戦乱となると入ってこなくなりすぐに飢饉となりました。
それを治められる武力というものが求められ続けたそうです。
しかしそういった事情が室町時代に一変しました。
食糧の流通というものが発達していったために、多少の戦乱であっても京に食糧は運ばれ、さらに地方で不作が続いても他からの移入ができて地方は飢饉となっても京は食べられるという形に変わったそうです。
まあ非常に難しい本でしたが中には面白い話も所々にでているといった印象です。