NHKの大河ドラマで久しぶりに源平から鎌倉時代を扱いましたが、それは鎌倉時代を中心として日本中世史が専門の歴史家の著者にとっても関心が高いことだったようです。
とはいえ、歴史学も日々進歩しており、かつての通俗小説のような見方をそのままドラマにされても困るなというところでしょうか、最新の歴史的知見をまとめておきたいという思いで書かれた本でした。
頼朝に出会う前は伊豆の中でも勢力の弱い方であった北条氏が頼朝に一族の命運を賭けてのし上がり、幕府を建てた後も有力御家人との闘争を勝ち抜いて行った経過というものはそれほど小説の題材ともなりにくいためか、あまり知られているとは言えないものでしょう。
そして結局は鎌倉幕府の最後にほぼ族滅して終わることになります。
その時、鎌倉は北条氏と共にほぼ完全に焼き払われ、多くの史料も失われたために歴史学的に鎌倉時代を振り返ることが難しいのだそうです。
それでも断片的な史料がわずかながらも発掘され、それによって鎌倉時代、そして北条氏についての知識も徐々に変化してきました。
将軍実朝が前将軍頼家の子の公暁に討たれた実朝暗殺事件は有名なものですが、その裏に何があるのかは様々な説があります。
公暁単独犯行説、三浦義村黒幕説、北条義時黒幕説などがそれですが、著者はこれは御家人の総意として実朝の朝廷への接近を許せないとするものがあり、それを義時が実行したということだと考えています。
というのは、殺されたのが実朝だけでなく実朝のブレーンとして京都から招かれていた源仲章もともに殺されているという事実があります。
また実行犯の公暁もその後殺してしまうというのも比企氏事件や畠山重忠追討の時と全く同じパターンでした。
北条政子は頼朝の妻として頼朝亡き後幕府の重鎮となったと言われていますが、これもそこまでの存在感ではなかったということです。
有名な承久の乱の際に政子が御家人たちに檄を飛ばしたというのも直接ではなかったようです。
あくまでも執権北条氏の勢力拡大は義時の考えが強かったという解釈です。
執権体制をさらに強力に組織したのが北条時頼と言われていますが、その補佐にあたった北条重時(極楽寺重時)の力が大きかったということです。
重時は北条義時の息子で泰時の弟ですが、六波羅探題も勤め時頼の時には連署として執権を補佐しました。
著者はこの重時についてもっと一般に知ってもらいたいと考えています。
彼が子供たちに残した家訓というものが伝わっていますが、その後も長く武家の道徳となったものがそこに始まるとも言えるようなものでした。
その後の執権、北条時宗は元寇を退けたとしてかつては高く評価されていました。
しかし、その行為は場当たりで慎重さを欠き、世界情勢をきちんと見て対応すれば元寇自体起こらずに済ませられたかもしれないものでした。
元寇に対して御家人ばかりでなく幕府に属さない武家も動員するということになり、執権に権力がさらに集中させることになり、それが結局幕府の崩壊につながることになりました。
その一因は時宗の施政に会ったのかもしれません。
なお、鎌倉時代の正史とも言える吾妻鏡はその最後まで記さずに将軍宗尊親王の追放で記述を終えています。
そのため鎌倉時代の歴史研究では中期以降はやりづらくなる影響が出ています。
ちょうどこの頃が貨幣経済浸透の時期と重なり、それに巻き込まれた御家人たちが借金を増やしてしまうということが幕府崩壊にもつながりますが、そのあたりの史料が少なくなってしまいました。
これには吾妻鏡というものが、北条氏の権力掌握までを記したという性格が関与しており、もう全部握ってしまったので書く意味がなくなったとも言えるようです。