日本において中世とは源平合戦の平安末期から戦国時代までを指します。
その前後の時代と比べはるかに物騒な、戦乱相次ぐ時代だったのですが、そのために歴史小説や映画として取り上げられることも多いため、「自分は中世に詳しい」と考える歴史ファンも多いものです。
しかし、そのような歴史ファンでも中世の社会の実態というものはほとんど理解していないのではないでしょうか。
武将や合戦については知っていても、人々は常に戦っていたわけではありません。
中世人の生活や、その心性、価値観などあまり知られていないようです。
ただし、研究者が一般向けに解説した概説書というものもあまり書かれていないようで、人々が知識がないのも無理ないところです。
無ければ自分で書けば良いと考えて書かれたのがこの本だということです。
著者の呉座さんは、日本中世史が専門の研究者で、特に一揆について詳しいそうです。
しかしこの本ではそれに限らず広く中世の人々の生活について色々な方向から触れています。
平安時代までの古代では、夫婦は必ずしも同居はしていませんでした。
源氏物語などを見れば、結婚後もそれぞれの親兄弟と同居し夜だけ一緒に過ごすという生活です。
これは当然のことながら同時に複数の相手を持つことも可能です。
それは男女双方に見られるもので、つまり多夫多妻的な婚姻形態だったわけです。
それがちょうど中世に移行する前くらいにようやく一夫一婦制(ただし男は妾を持つことが多い)が成立していきます。
そしてそれも婿取婚ではなく嫁取婚の形態が普通となっていきます。
その移行は京都の公家社会より地方の武士の方が早かったようです。
江戸時代には寺子屋などでも庶民教育が広く普及したと言われていますが、鎌倉時代から南北朝時代までは武士でもほとんど識字能力がなかったようです。
当時でも複数の息子がいた場合の遺産相続というものは大問題で、その紛争を防ぐために親は譲り状(ゆずりじょう)というものを残していました。
つまり、現在の遺言状なのですが、今に残るそれらの文書を見るとほとんどが平仮名で書かれています。
今も同様ですが、遺言状は自筆で書かなければなりません。
ところが当時は武士と言ってもほとんど漢字は書けず、わずかに平仮名だけ書けたのでそれで譲り状も平仮名だけで書いたようです。
近代以前は日本人は誕生日というものを祝う風習は無いと考えられていました。
明治以降に例えば天皇の誕生日を天長節として祝うようになったのも、西洋の風習を取り入れたものとされました。
しかし、江戸時代にはどうやら上は天皇から庶民に至るまで、誕生日を祝って餅や赤飯を食べていたことが明らかになりました。
さらに、室町時代にも禅僧が「誕生祈祷」を行っていた記録が見つかりました。
足利義満は、将軍家の公式行事として誕生日祈祷をさせたそうです。
それも、年に1度の「正御誕生日」の他に毎月の誕生日まで祝ったとか。
これは命日の「祥月命日」と「月命日」と同様に考えられていたようです。
朝鮮通信使は江戸幕府が行ったことで有名ですが、実は室町時代にも来ていました。
応永26年に朝鮮は倭寇の本拠地と見た対馬を攻撃しました。(応永の乱)
それによって緊張した日朝関係の修復のため来日した使者が宋希景でした。
彼がソウルから京都までの往復9か月の旅をつづった詩文集が「老松堂日本行録」で、これが外国人の手になる最古の日本紀行と見られます。
それによれば、仏教僧のあまりの多さに驚き、こんなに僧ばかりでは労働力が不足するのではとあったり、町に遊女が多く昼から営業していること、男色が盛んな事などに唖然としています。
老人が若者に相手にされる秘訣は「説教」「昔話」「自慢話」をしないことだそうです。
しかし、中世の頃にも老人は数々の自慢話をしていました。
大庭景能という御家人は源平合戦の生き残りで他の武者は皆死んでしまった気楽さからか、若者たち相手に保元の乱の折りに敵軍の源為朝と遭遇し、彼の強弓に射られてはひとたまりも無いと思って馬を素早く駆け巡らし、矢をかわしたという自慢話を披露しました。
一応、吾妻鏡には「一同感心した」と書かれていますが、この宴会で酒や肴を用意したのも景能でしたので、そう言うしかなかったのでしょう。
中世の人々の考え方、物事の感じ方、今と同じようで少し違うところもあるというところでしょうか。