爽風上々のブログ

熊本の片田舎に住むリタイア読書人がその時々の心に触れたものを書き散らしています。読んだ本の感想がメインですが(読書記録)、エネルギー問題、食品問題など、また政治経済・環境問題など興味のあるものには触れていきます。

「反音楽史 さらばベートーヴェン」石井宏著

音楽史、といってもクラシック音楽を中心に据えるものですが、そこではドイツ音楽というものが圧倒的な存在感で真ん中に大きくそびえ立ち、それ以前は未開のもの、それ以外は大衆向けポピュラーといった風に描かれています。

その影響を強く受けた日本の教育界でもその思想を強く受け継ぎ、学校の音楽室にはバッハ、ベートーベンといった人々の肖像画が飾られ、クラシック音楽はそれが王道という扱いで教えられます。

 

しかし実際の音楽の歴史を見ていくと全くそうではないことが明らかです。

いくら真実を覆い隠そうとしても、音楽用語のほとんどはイタリア語で、アレグロやフォルテ、クレッシェンドなど、そこにはドイツ語などは一つもありません。

 

パウル・ベッカーの「西洋音楽史」は、他の音楽史家の著作と比べればまだドイツ一辺倒でもないのですが、それでもその内容を見ればドイツ音楽至上主義というものに染められています。

そこには「18世紀音楽の主潮はドイツにあった」「ウィーンは今や世界の音楽首都となった」などと書かれていますが、事実は全く違います。

 

中世からルネサンスを経て音楽は徐々に開かれていきますが、その舞台のほとんどはイタリアでした。

そこでさらにオペラというものが人気を得て多くのオペラが作られ、さらに歌手や演奏家も輩出してきます。

彼らの幾人かはイタリアを離れてヨーロッパ各地に散り、王家や貴族、教会の音楽担当として雇われるのですが、そこでも圧倒的にイタリア人が優位で良いポストはイタリア人から埋まっていく状況でした。

ドイツ人でも音楽界で生き残るためにはイタリア留学が必須でありそれで名を挙げた人も何人かは出ました。

しかし留学などは全く不可能だったバッハは就職活動をやってもほとんど落とされ、ようやくわずかな給料で雇われる程度でした。

良い職のほとんどはイタリアから流れてきた音楽家に取られてしまうという状況はかなり遅い時期まで続いたようです。

バッハの息子たちも音楽家として活躍したと言われていますが、その中でも実際に活躍したのはヨハン・クリスティアン・バッハでした。

しかし、ドイツ音楽史観ではクリスティアンはほとんど無視されています。

彼はドイツを離れイタリアで学び、オペラを書いたのちにイギリスにわたりヘンデルの後継者としてイギリス王室に雇われ大活躍しました。

しかしドイツ音楽史家からみれば裏切者で堕落したとしか扱われていません。

 

モーツァルトも子供の頃に音楽才能をきらめかせた頃にはある程度の注目を集めたものの、その後はほとんど日も当たらない状況で生活にも困るようなことになります。

その作曲も生きている間はほとんど認められず、ようやく死後に再発見されていきます。

 

 

そのような状況を逆転させドイツ音楽が至高のように感じさせるようになったのはなぜか。

そこにはフランス革命に始まる社会の大変化で王侯貴族の没落も関わりますが、シューマン(ローベルト・シューマン)とそのエピゴーネン(亜流)による文筆活動も大きかったようです。

シューマンは作曲家として知られていますが、実際にはそれよりもライプツィヒの出版社から出版された音楽誌の編集者として活躍しており、そこでドイツ音楽至上主義を打ち上げたそうです。

それがドイツの国運興隆の時勢とも合い、大きな波となってドイツ音楽隆盛にもつながったとか。

そして実際の音楽史を書き換えイタリア音楽などは通俗で何の価値もないかのような宣伝を行ない、まんまと音楽史の簒奪に成功したということです。

 

しかし、そのような音楽史簒奪は、その後のクラシック音楽の衰退を必然的にもたらし、結局はポピュラー音楽に道を譲ってしまった。

それも因果応報ということなのでしょう。