音楽を劇の重要要素として取り入れている音楽劇というものは、現在でもオペラやミュージカルとして人気があります。
しかしオペラはクラシック音楽として扱われ、ミュージカルの多くはポピュラー音楽ですが、そこにや共通の性質があるようです。
そのような音楽劇というものの歴史を解き明かしていきます。
なお、著者の重木さんは音楽家や音楽専門の研究者というわけではなく、情報関係の会社の社長まで務められたということで、音楽関係はあくまでも趣味としてやってこられたようですが、その分析は非常に詳細で対象も多岐にわたり、驚くほどです。
劇中で音楽を奏でるということは古代ギリシャで行われていたと言われています。
その有様はさすがに想像するしかないのですが、ルネサンス末期になってそういった音楽劇を復活するという試みが行われました。16世紀末のイタリアでのことです。
ルネサンス期にはそれまでの教会での宗教音楽のみの時代から通俗的な内容の音楽が演奏されるようになってきました。
その一つとして演劇と音楽を組み合わせたオペラが出来上がってきます。
最初のオペラと言われているのが1600年に上演されたペーリとカッチーニの作曲と言われる「エウリディーチェ」でした。
最初の頃は単声で歌う旋律に器楽の伴奏を付けるモノディ形式というものでしたが、徐々に舞台を盛り上げ旋律的で独立した歌が書かれるようになり「アリア」が誕生します。
しかしアリアだけでは物語の進行が分からなくなるため、説明的な台詞をしゃべるように歌う「レチタティーヴォ」も登場してきます。
この形式のオペラがイタリアを中心に発達してきます。
やがてイタリアの都市国家間の勢力の交替によりヴェネツィアが主流となりオペラの本場もそこに移ります。
しかし、ヴェネツィアは都市構造上の特徴から劇場も小さいものしか作れなかったので、ここでオペラというものの形も大きく変わってきました。
まず多人数の合唱隊を入れるスペースも雇う金も少なかったために合唱の廃止。
そして楽団員の配置は舞台の後や横だったものがそのスペースもなくなったので舞台前の平土間で演奏させるようになりました。
これは奇しくも古代ギリシャの劇場で楽団が置かれたのと同じ場所であり、その当時のギリシャ語でオーケストラと呼ばれていたのですが、それが楽団を呼ぶ名称となりました。
その後、19世紀はオペラとバレエの黄金期と言われます。
イタリアオペラがフランスやイギリスでも上演されるとともに、各国でも自国風のオペラが作られるようになります。
また、この頃はフランスの市民革命の後の権利の確立の動きにより著作権も形を整えてきたことが、作曲家などの収入を安定させるのに大きな役割を果たしました。
19世紀初めに活躍したロッシーニは著作権料を手にしましたがまだそれだけでは生活が安定せず、フランス国王シャルル10世に作品を献上しそのおかげで年金を貰ってようやく生活できました。
その後に続くドニゼッティやベッリーニは一応オペラの作曲料だけで生活はできましたがまだ収入は不十分であり年間3本のオペラを作曲しなければなりませんでした。
その後19世紀後半のヴェルディになると著作権が確立し作曲料も高額となったために50年間で30本のオペラを作ったという、前代と比べるとゆったりしたペースですが、その収入で恵まれない音楽家たちの養老院まで建設しています。
しかし20世紀になると社会も大きく変革しまた映画などの新たな娯楽も出現しオペラはどんどんと力を失っていきます。
ドイツのその頃の作曲家リヒャルト・シュトラウスはオペラも書きましたが、その他の器楽曲も多く書きました。
聴衆の好みの変化というものが起きたようです。
また作曲家たちも一般向けの作品ではなく難解な芸術性の高いものに向くようになり、結局は大衆の支持を失い、1920年代以降はオペラの新作の発表は激減し19世紀の作品の再演ばかりとなっていきました。
権力者たちに主に支えられてきたオペラと違い、オペレッタは新興ブルジョワ層や一般市民の支持によって支えられました。
19世紀後半から第1次世界大戦までの時代に主に、パリ、ウィーン・ブダペスト、ロンドンを中心にオペレッタのブームが起きますが、それぞれの場所により違いがあるようです。
パリではオッフェンバックが中心となり鋭い社会風刺を得意とするオペラ・コミックとしてのオペレッタが流行しました。
これはすぐにウィーンにも伝わったのですが、まだ帝国の中心であったウィーンでは風俗描写が中心となりました。
ロンドンでは金本位制の採用に伴う不況に対応し風刺精神がさらに強まったサヴォイ・オペラが成立しました。
ギルバートとサリヴァンが中心だったのですが、彼らの後継者のアイヴァン・キャリルは20世紀に入ると活動の場をアメリカに移しその後はアメリカの独自の発達を促します。
アメリカでは最初の移民たちが清教徒であったため、音楽劇などは認められない雰囲気が続きました。
その後は徐々に音楽演奏も広がっていったのですが、独自のものが多かったようです。
南北戦争後の1870年頃になって輸入物のオペレッタが本格的に上演されるようになります。
ギルバートとサリヴァンの作品群も人気を集めました。
そしてアメリカ独自の作品も作られるようになっていきます。
現在もミュージカルの中心地となっているブロードウェイにも地下鉄が開通した頃から劇場が建ち始め、大半は1904年から1929年の間に建設されています。
アメリカ独自のオペレッタが作られるとともに、レヴューと呼ばれるものも作られました。
最初は今でいう「今年のニュースレビュー」といったものだったのですが、その内にニュース性といったものは失われ豪華な衣装を着たコーラス・ガールたちが歌いながらファッションショーのように歩くという形になっていきます。
「フォリーズ」や「パッシング・ショー」といったものが有名です。
やがて1920年代にはジャズがアメリカ音楽界を席巻し音楽劇もその影響を受けるようになります。
オペレッタというものが時代遅れとなって終焉していき、ミュージカル様式が生まれます。
その最初がジェローム・カーンの「ショー・ボート」(1927)でした。
それはエドナ・ファーバーの小説を下敷きとした台本があり、場面ごとに全く異なる曲調の歌が使われるという、現在のミュージカル様式につながるものでした。
そこには台本と台詞を担当したオスカー・ハマースタイン2世の力も大きく作用していました。
大不況の後の1930年代には興行は不調となりますが、様々な技術の進歩がその後の発展の土台を作ります。
マイクロフォンやスピーカーの進歩、レコードの改善、さらにラジオなどの通信技術も発達し、音楽を取り巻く環境が大きく変わっていきます。
マイクの進歩ではそれまでの生の声で会場中をに響かせるといった歌い方ではなくささやくような声でも十分に歌えることとなり、歌手層も大きく変化します。
1943年のオクラホマでは全曲を治めたレコードが初めて発売されることになります。
オクラホマは物語によって台本と歌を統合した「台本ミュージカル」と呼ぶべきものなのですが、さらに「踊り」も統合したことになります。
物語中の「夢」の場面で踊るシーンでは古典バレエの振り付けで踊られました。
その後も古典バレエの振り付けを取り入れた踊りのシーンが入っていたのですが、徐々に振り付けも発展していきます。
ジェローム・ロビンスはダンサーとして踊った経験者ですが、バーンスタインと知り合い共同で新作バレエ「ファンシー・フリー」’(1944)を作りこれをミュージカルに発展させて「オン・ザ・タウン」(1944)としました。
このコンビがその後はなったのが「ウェスト・サイド物語」で、踊りと物語の真の統合を実現します。
1950年代は大型のミュージカルの最盛期でした。
マイフェアレディ、サウンドオブミュージック、王様と私など、今でもファンの多い大作が次々と作られますが、これらは台本ミュージカルという範疇の作品ばかりでした。
しかし1960年代になりベトナム戦争などの社会情勢、ロックミュージックの流行などの影響で徐々に台本ミュージカルは衰退してしまいます。
今後、音楽劇というものがどのような方向に行くのか、まだ分からないようです。