爽風上々のブログ

熊本の片田舎に住むリタイア読書人がその時々の心に触れたものを書き散らしています。読んだ本の感想がメインですが(読書記録)、エネルギー問題、食品問題など、また政治経済・環境問題など興味のあるものには触れていきます。

「トロイア戦争 歴史・文学・考古学」エリック・H・クライン著

古代ギリシアホメロスが「イリアス」や「オデッセイ」で描いた「トロイア戦争」は本当にあったことなのか。

有名なシュリーマンの発掘ということも記憶にある人も多いかもしれません。

そしてそれが本当のトロイア戦争のものではないということも。

 

トロイア戦争については、ギリシア側にしか記録が残っていないということもあります。

トロイアの背後には当時の大勢力であったヒッタイト人がいたのですが、彼らの記録にはそれらしき戦争はありません。

 

古代ギリシャ文明が栄える以前にギリシャ本土に栄えていた文明がミュケナイ文明でした。

時代としてはもしもトロイア戦争があったとしたらその当事者はミュケナイ人であったのですが、このミュケナイ文明は紀元前1700年頃から紀元前1200年頃までギリシャ本土に栄えたもののその頃に滅亡しています。

つまり、トロイア戦争ミュケナイ人が自身の文明が滅亡する危機にあったにも関わらず、主力部隊を何年も派遣してしまっていたことになります。

 

古代ギリシャトロイア戦争に関する物語には、ホメロスによる「イリアス」「オデュッセイア」の他にも「叙事詩の環」と呼ばれるものがあります。

しかし「叙事詩の環」の作品群はほとんど残存しておらず、ごくわずかな文章と他の書物に引用されたものしか知られていません。

また、イリアスなどを書き残したとされるホメロスも本当に実在したのか、あるいは何人かの人物の複合した存在なのか、様々な説があります。

いずれにせよ、その活躍した時代はトロイア戦争が起きた時代のはるか後であり、それまでは口承文学として受け継がれてきたとも考えられますが、ホメロスがその時代に創作したのかもしれません。

 

最近になって発掘が進み、多くのヒッタイト文書が知られるようになりました。

そこにはトロイア戦争自体の記述は見当たりませんが、トロイアという名称はどうやらウィルサと呼ばれていたということは確定できるようです。

ウィルサの王としてアラクサンドゥと読める人名もあります。

これはギリシャの文書に現れる、トロイアのパリス、それはアレクサンドロスとも呼ばれたということで、彼と同一人物と考えることもできます。

ウィルサはヒッタイトとは別の国であったようですが、その強い影響下にあったようで、ヒッタイトとの間に条約を結んだという記録も残っています。

ただし、アラクサンドゥが誰との間で戦いを起こし、その助勢をヒッタイトに頼んだのかは不明です。

ミュケナイかもしれませんが、その当時盛んに沿岸諸国を襲っていた「海の民」かもしれません。

いずれにせよ、名前と時代は似通っていても、ホメロスの描くトロイア王とはかなり事情が異なるようです。

 

考古学的な探求については、シュリーマンに触れない訳には行きません。

シュリーマンは商売で成功し利益を得てから考古学的発掘に乗り出しましたが、そのやり方にはかなり欠点があり間違った結果を出しただけだったようです。

それまではトルコでも別の場所がトロイアの候補地と見なされていたのですが、フランク・カルヴァ―トなどがヒサルルックと呼ばれる場所がその候補だとしたことを信じ、財産を投じて発掘を始めました。

よく知られているようにその遺跡は多くの時代で同じ場所で繁栄したことを反映して何層にも重なったものでした。

シュリーマンはそのうち下から2番目(トロイア第2市)がプリアモスのトロイだと信じていましたが、実際にはトロイア戦争と言われる時代は第6市か第7市にあたります。

第2市はそれより1000年以上も前の紀元前2300年ほどのもののようです。

 

その後もヒサルルックの発掘は別の人々により続けられるのですが、各層を丹念に調べていき、それがもしもトロイア戦争で破壊されたのならその証拠が見つかるはずと期待してもそれにふさわしいものが見つからなかったようです。

いくつかの小規模な火災や地震の跡はあるものの、全市が破壊され炎上したということはありませんでした。

 

ホメロスイリアスという物語が何らかの歴史事実を伝えているものなのかどうか。

どうやら、そのままぴったりというものはないようです。

戦争が無かったということではなく、逆にしょちゅう戦争をしていたようです。

しかし最終的に完敗して破壊されたということも無かったというところでしょうか。