クラシック音楽という芸術の分野があります。
時々それが大好きという人に出会いますが、たいていちょっと付き合いづらいという雰囲気のように感じます。
それを聞くのはコンサートホールとかいう、普段はほとんど行かないような場所で、結構気張った格好をしていかないと気が引けるようなところです。
さて、それでは「クラシック音楽」とは何かと言われると、さっと説明できる人も少ないのではないでしょうか。
この本はそういった「クラシック音楽とは何か」という問いに、様々な方向からの答えを用意しています。
定義を見つけても良いし、現在の楽しみ方を確かめても良いし、色々なクラシック音楽にまつわる知識をつけても良いという、なかなか役に立つ(人によっては)ものかもしれません。
クラシック音楽というものが、どういった曲を指すのかということは実はかなり限定されています。
ヨーロッパの古典音楽なのですが、あまり広い範囲のものではありません。
18世紀の前半から20世紀初頭までに作曲された音楽のうちの一部が「クラシック音楽」とされています。
バッハ、モーツァルト、などからラヴェル、ストラヴィンスキーくらいまではこの範囲に入っていますが、ルネサンス期にも多くの素晴らしい作曲家は居るもののクラシックとは呼ばれません。
また、ジョン・ケージの音楽ももはや古典と言っていい時間が経過していますが、それをクラシックと呼ぶことはありません。
特に著者が「クラシック音楽の本丸」としているのは、19世紀です。
ヨーロッパ自体が世界を席巻し、自分たちの文化を広めて回ったその時期とクラシック音楽の黄金期というものは重なります。
ヨーロッパでも中世、ルネサンス期の音楽はクラシックとは言われません。「古楽」と呼ばれます。
そしてその後の「バロック」が古楽からクラシックへの過渡期とされています。
しかし、バロックには現在クラシックの代名詞ともされる交響曲というものはありませんでした。
バッハが得意であったフーガという技法はクラシック時代には消えました。
その代わり、クラシックで重要になるソナタという形式はバロック時代にはまだ成立していませんでした。
楽器編成や音楽形式でヨーロッパ音楽がほぼ今の「クラシック」の形になるのが「ウィーン古典派」の時代、18世紀後半から19世紀初めの頃でした。
この時代を代表するのが、ハイドン、モーツァルト、ベートーヴェンでした。
3人ともウィーンで活躍しました。
楽器もほぼ現在と同じものになり、オーケストラ編成も同様です。
さらに交響楽というジャンルが確立し、弦楽四重奏やソナタ形式も出来上がりました。
そして、この時期に「コンサート」というものも始まりました。
実はそれ以前の時代には音楽を聴く場所とは宮廷か教会しかなかったのです。
誰でも切符さえ買えば音楽を楽しめるコンサートという仕組みはこの時期のイギリスで始まりました。
現代のクラシック界でもっとも売れる作曲家というのはモーツァルトです。
曲が素晴らしいというだけでなく、日本酒にモーツァルトを聞かせるだの、胎教に良いだのといったほとんど健康食品的な次元にまで及んでいます。
しかし、著者はこの恐ろしく難解な作曲家がなぜこんなに売れるのか、以前から不思議に思っていたそうです。
モーツァルトの曲はどれも一見人懐こい外見をしていますが、その背後には時に恐ろしく、意地悪く、絶望的でシニカルな仕掛けが隠されています。
モーツァルトとはそれほど単純なものではないということです。
クラシック音楽もその黄金期には新曲が次々と作られていたわけです。
ところが20世紀に入り新曲というものが無くなり、レパートリーが固定化されていくことになりました。
すると、必然的に名曲を誰がどう演奏するかという方向に人々の興味は向かって行きます。
これは、演奏家というものが演奏だけに特化していく時代とも重なります。
マーラーやリヒャルト・シュトラウスも大指揮者というべきですが、同時に彼らは作曲家でもありました。
しかし、20世紀にはいると大指揮者であったトスカニーニやカラヤンは公的には作曲はしなくなりました。
そして「大指揮者」たちは既成の作品を演奏することだけしかできなくなりました。
彼らは「作品」に寄りかからなければ商売になりません。
作品を完全に換骨奪胎し好き勝手なことをしては客が付いてきません。
クラシックファンたちの定番名曲についての「この曲はかくあるべし」というイメージは確固として存在し、演奏家たちがそれからあまり外れると認めません。
演奏家たちの「名演」というものは、この微妙なバランスの中にあります。
ファンたちのイメージから一歩も外れないものは「いい演奏」ではあっても「名演」とは言われません。
やはりイメージを少し越えたものであり、しかもあまり飛び越えないものでなければならないという難しいものなのでしょう。
クラシック音楽の演奏の在り方というものは、1970年代から1990年代にかけて大きな変化を遂げたようです。
1970年までは、実はクラシック黄金期の19世紀の残照がまだ少しは世の中に残っていました。
しかし、その記憶を持つ最後の人達が亡くなっていく時代となりました。
それまでいた「カリスマ巨匠」と呼ばれる人々、カラヤン、ホロヴィッツ、バーンスタインといった人たちが次々と逝ってしまいました。
そして1990年代頃から、カリスマ巨匠に継ぐような巨匠という人が出なくなりました。
たしかに優れた音楽家たちは多く居ますが、しかしカリスマ性を持つ巨匠という人はでなくなったようです。
ただし、これはクラシック界だけではないのかもしれません。
ジャズでもマイルス・デイヴィスが1991年に亡くなり、その後カリスマ性を持つ人は出ていません。
日本の歌謡界でも美空ひばりが世を去ったのは1989年、その後日本に国民歌手と言える歌手は居るかどうか。
この1990年という時期は、巨大な文化史的転換が完遂したということです。
いわば「カリスマがアイドルに乗っ取られた」とでも言えるような変化でした。
クラシック音楽というと、伝統的でちょっと気取った音楽というイメージでしたが、そこには多くの文化史的な意味があるということでした。
覚えておくとためになりそうです。