内田さんが、私立の中高の英語の先生たちに講演した内容です。
現在の日本の英語教育が何を目指しているか、その真実に迫っていると思います。
冒頭に、かつて内田さんが学んだ頃の英語や他の言語の教育、(それは私も同様ですが)がどうであったかをすっきりと説明しています。
かつての外国語学習、それは明治期の外国文化を取り入れるのに懸命であった頃から一緒だったと思いますが、
そこには、「目標言語」と「目標文化」というものがあったということです。
我らが若い頃の英語学習というものの場合、それは誰の目にも明らかでした。
「英語」を学ぶのは「アメリカ文化」に迫りたいから。
アメリカ文化の中の、映画の言葉を聞き取りたい、ロックの歌詞を理解したい、アメリカの小説を原語で読みたいという目標がかなり具体的に見えるものでした。
内田さんも、ビートルズの曲の歌詞を理解したいから、英語を一所懸命勉強したそうです。
これは私もほぼ同一の経験を持っています。
その後、内田さんはフランス語の勉強を、これもフランス文化に迫りたいがために始めました。
当時は、第二外国語としてロシア語を選択する学生も多かったようです。ソ連の科学力にあこがれそうしたのですが、その時点では間違いではなかったでしょう。
しかし、現在の英語教育には、その「目標文化」が無いということです。
それを勉強して、アメリカに行きたいのか、カナダに行きたいのか、そういった目標を立てることがないそうです。
今の大学の英文科志望の学生に、「英米文学を学ぶ」ことを目標とするものが150人中2人しか居なかったそうです。他のほぼすべての学生は「英語を活かした職業に就きたいから」というのが志望理由だったとか。
平田オリザさんがこの状況を極めて的確に表現しています。
「現代の英語教育は、”ユニクロのシンガポール支店長を育てる教育”である」と
英語教育を通じて、英語圏の文化に触れる喜びを求めることなど、文科省の作文には一言も触れていません。
そこには、英語を学びグローバル企業で活躍することということが書かれているそうです。
教育の目標が「企業で活躍」
その、奇怪さに彼らは気がついていないのでしょう。
今の学校では、オーラル・コミュニケーション能力ばかりが強調され、英語を読み書きする能力はおろそかにされています。
これは、明らかに「植民地現地人教育」の典型例です。
宗主国アメリカの人間がやってきた時にその命令が聞き取れれば良い。
下手に文書を読み書きさせると反乱を起こすだけだ。
それが形となっているのが、現在の日本の学校英語教育です。
なお、最後の文には驚きました。
「原住民には法律文書や契約書を読む以上の読解力は求めない」ということを英語教育について書いたら、国語教育でも同じことをしようとしているということを知らされた。
まことに情けない国に成り下がったものである。
なんと、国語教育でも植民地教育が行われているようです。