現在では仏教各宗派の中でも最も勢力の大きい浄土真宗です。
鎌倉時代の親鸞を始祖とし、中興の祖として室町時代の蓮如が活躍したということは知っていますが、その実像はどうだったのでしょうか。
平安時代の仏教は、天台宗や真言宗がその密教の呪術で信仰を集めていました。
天台宗の源信が「往生要集」を著したように、貴族社会を中心に臨終の時の作法「臨終行儀」が重要視されるようになります。
これは、いわば自力による極楽往生を目指したものでした。
このような浄土教とも言える仏教が優勢となっていた時代でした。
親鸞やその師の法然も、このような時代の雰囲気の中で生まれ育ち、さらに僧としての修行も経てきたために、そのような臨終行儀と無縁とは言えなかったようです。
法然(法然房源空)は武士の子として生まれましたが、父親が土地の抗争で討たれ仏門に入ります。
比叡山に入り、源光、ついで叡空に師事します。
しかし、叡空が伝統的な念仏の見解である「観想念仏」を極楽往生のための行として最上とする天台宗旧来の説を説いたのに対し、法然は「称名念仏」を主張します。
称名念仏は自力の念仏ではなく、阿弥陀仏に全てを任せるという他力の念仏です。
したがって、臨終の際の念仏を特別なものと考える臨終行儀は否定されます。
そうして、比叡山を降り専修念仏を広めることとなります。
しかし、本人が自分の病気のために祈祷をしたということは無かったようですが、信者たちから頼まれると断りきれなかったようで、関白九条兼実はかねてから法然に深く帰依していたのですが、兼実の娘が病となるとそのために法然が祈祷したとされます。
聖人伝説で彩られているために脚色が多いのですが、実際は日野家は藤原氏の中でも傍流で下級の貴族であったようです。
9歳の時に出家しました。この時には父親はまだ存命であったようですが、同時に兄弟も出家しており、何らかの事情があったものと考えられますがそれは不明です。
比叡山で天台僧として約20年間を過ごすこととなります。
そして、このままでは往生できないと見切りをつけ下山し法然の下に入ることとなります。
その時期に、出家のままですが妻を娶ることになります。これも女犯を禁じる不淫戒を破ることですが、その詳細は不明のようです。
なお、正妻として惠信尼がいますが、長男の善鸞は母親が違う可能性があり、親鸞は複数の妻を持っていたと考えられます。
法然の専修念仏は、比叡山の批判の的とされ、弟子の安楽坊のスキャンダルにより法然をはじめ親鸞も流罪とされました。
親鸞は越後に流されるのですが、それを契機に許された後も東国に布教をするようになります。
親鸞は法然を絶対的に信頼し、法然にしたがったために悪道に堕ちることになっても構わないと語っていたそうです。
しかし、法然と親鸞の著作を並べてみると同一とは言えない面もあるようです。
法然は他力というものをさほど強調はしていないのですが、親鸞は自力を強く否定し、あくまでも他力に撤すべしとしています。
親鸞は末法に生きるものは自力で悟りに至ることはできないということを自覚すべしとしており、愚であることを認識することを強調しています。
病気の際も決して経典読誦をしようとはしなかったのですが、一度かなりの高熱を出した時に無意識に経をとなえてしまいました。覚めてから改めて反省しました。
親鸞はその信仰にゆらぎはなかったとしても、家族にそれがどこまで伝わっていたかは怪しいところです。
妻の惠信尼、長男の善鸞、娘の覚信尼を見ても、自力の念仏を信じていた様子が見えます。
善鸞は東国の信者の動揺を鎮めるために向かったのですが、かえって彼らの動きに同調してしまい、呪術を多用することとなって義絶されました。
当時の時代の雰囲気の中では、完全に他力本願という親鸞の教えを貫くことは難しかったのでしょうし、善鸞自身が本当の意味で親鸞の信仰を理解できていなかったのかもしれません。
その後も親鸞の子や孫の人々もはっきりと他力本願を打ち出して布教をできるものは出ませんでした。
そして浄土真宗自体も退潮気味となったのですが、そこで出たのが蓮如でした。
彼は親鸞やその他の人々の残した著作を読み、その意味を理解しそれを広めることとなりました。
蓮如なしではこの浄土真宗の繁栄は無かったでしょうが、しかし室町時代にそれを為したために戦国大名との武力の争いにも巻き込まれることとなりました。
明治以降、近代的な宗教観から歴史を見直す傾向が強くなり、鎌倉時代の新仏教の力を過度に評価する動きも強くなりました。
西欧の宗教改革と並べて評価する動きが現れ、プロテスタントと浄土真宗、禅宗、日蓮宗などとが並び称されるようになります。
しかし、その印象ほどではなく、法然も親鸞も天台宗の強い影響下にあったと言えます。
親鸞の教えは従来言われてきたほどに革新的ではなかったのですが、それでも魅力があったからこそ多くの信者を得ることができたのでしょう。