東日本大震災では犠牲者のほとんどは津波により亡くなりました。
しかし、地震発生から津波到達までは1時間程度の時間の余裕があり、避難できたにもかかわらず効果的な避難をしなかったということが分かってきています。
宮城県名取市の閖上地区も被災地の中では津波到達がもっとも遅かったのに、多くの犠牲者が出ました。
一番ひどかった閖上2丁目では実に住人の24%、4人に1人が犠牲になりました。
NHKではその実態を取材するために多くの住民に話を聞き、彼らがその時に何を考え何をしていたのか、閖上地区の当時の住民2100人あまりの中から542人に直接インタビューをして番組を作り上げました。
それが地震の7ヶ月後に放送された「NHKスペシャル 巨大津波 その時ひとはどう動いたか」だったのです。
しかし、多くの取材結果の中で番組に使えたのはごく一部であったため、使えなかった部分も含めて本書としたそうです。
もちろん、出版はこの犠牲の記録から少しでも有効な情報を役に立て、次の災害時に犠牲者を少しでも減らそうという目的です。
地震発生は2011年3月11日の午後2時46分でした。
名取市の震度は6,地震の揺れで倒壊までした建物は少なく、ほとんどの建物は見た目にはほとんど被害はないようでした。
しかし、電気は止まりテレビを見ることはできなくなっていました。
さらに、情報を流すべき防災無線が地震の揺れで破損し作動しなくなっていました。
携帯電話も通じず、本来ならばそこでラジオを聞くべきであったのですが、そのような行動をした人はほとんどいませんでした。
そのために、閖上の住民のほとんどは津波に備えて避難を始めるということはなく、家の片付けなどで限られた時間を無為に浪費してしまうことになりました。
こういう状況を、心理学的には「正常性バイアス」と言います。
異常な現象にさらされても、それをなるべく正常な範囲内のこととして心理的に処理してしまう状態であり、通常ならば落ち着いた行動を取ることでパニックを防ぐ効果があるのですが、このような緊急事態では逆にそれが仇になることになります。
情報が遮断された状態だった地区でも、消防団には大津波警報が出たという連絡が入りました。
消防団員たちは必死で避難の呼びかけを始めました。
それを聞いて「危機スイッチ」が入り避難をして一命をとりとめた人も多かったようです。
しかし、多くの消防団員がそのために亡くなりました。
閖上地区でも、より海岸に近い地区では避難を始めるのが早かった人たちもいたようです。
そこでは地震の揺れでマンホールの蓋が吹っ飛び水が吹き出すということが起きました。その現象と津波とは直接はつながりませんが、これは大きな地震であるという感覚を持たされて避難と言いう行動につながった人も多かったようです。
ラジオを聞く人は少なかったのですが、それでも何人かはラジオのスイッチを入れました。
しかし、その当時はまだラジオの緊急事態の報道方法というものが違っており、単に事実を次々と読み上げるというものだったために、最初の第1波が数十cmといったことを読み上げてしまい、そこだけ聞いた聴取者が大したことがないと判断してラジオのスシッチを切ってしまったということもありました。
今回の場合も最初は津波の高さを最大6mと伝えたのですが、その後の気象庁発表でどんどんと大きくなっていくということになりました。
そのために、淡々と情報を読み上げただけのラジオ放送では、緊急性が伝わらなかったと言うことがありました。
NHK等放送局では、その反省のもとにその後の地震発生時の報道ではとにかく「大津波発生の危険があるのですぐに逃げろ」と連呼するようにしたそうです。
「津波てんでんこ」という言葉が大きく報じられましたが、今回もやはり家族や近所の人々を助けようとして亡くなった人が大勢いました。
家族などを心配してしまうのは仕方のないことです。答えはそう簡単なものではありません。
閖上地区では海に近い方から公民館、中学校、小学校とあり、以前に想定されていた津波浸水域ではどれも被害に合わないはずでした。
そのために、避難しても公民館止まりだった人も多く、そこまで到達して一安心と言う思いでした。
しかし、その後の報道でより巨大な津波が襲来するということが分かり、公民館から中学校、小学校へ再避難をしようとしてその途中で津波に遭った人たちもいました。
津波に飲まれた人、生き残った人、それは紙一重の差だったのかもしれません。
多くの人が亡くなるような大災害の中で、どう考えどう行動したのか、それを一つ一つ残しておくことは重要なことでしょう。それを活かせるかどうかは難しい問題でしょうが。