かなり時代が下っても九州に王朝が存在したという、九州王朝説は正統派学界からはほとんど無視されているような状況ですが、民間の古代史愛好家が集う九州古代史の会などで活動は続けられているようで、本書著者の兼川さんも活躍されています。
本書の冒頭に、正統派歴史学会に対する批判がつづられています。
考古学の成果を重点的に活用した戦後の文献史学は、特に実証文献史学と呼ばれて戦後史学の主流と見られるに至った。
ところで、この方法の難点は、一口に考古学的成果の援用とはいうものの、その考古学的成果の信憑性に関わるものであることは言うまでもない。
(中略)
その遺跡調査の成果をなんとかして時代を割り出そうとする。その時が一番危ない。
それを割り出そうとする人は考古学者だから一定の古代史的素養を身につけている。それが徒になる。
極端に言えばその考古学者が戦前の皇国史観に基づく古代史を身につけていたらどうなるか。
これではせっかくの遺跡や出土物の中に「日本書紀」の記事を埋め戻しているようなものである。
確かにそういうことがあるのかもしれません。
兼川さんは、これまでの史学ではあまり扱われていなかったような史料を探索し、そこに書かれている事柄を互いに比較しています。
そこには、個人の著作から寺社の縁起類まで含まれ、「何でもあり」ということです。
そのような厖大な史料群を結びつければどうなるか。
通常の歴史常識からは考えられないようなものが提示され、それは一種の爽快感すら覚えるようなものとなっています。
その内容は非常に大きなものであり、なかなか簡略化してまとめるというわけにもいきませんが、ざっと述べれば、百済の王統には三系統があったということ。
そして九州の中でも筑紫と豊に王権があり、倭の五王の時代にもそこが中心であったということ。
五王のうちの、讃、珍は百済王の佛流系、興、武は温祚系であり、その継承が日本でも起きていたということなど。
「九州年号」と呼ばれる年号の存在も正統派では無視されていますが、それを詳しく見ていけば歴史の真相に迫れるということ。
まあ、正統派史学会からは決して認められることのないような主張ですが、意外にこちらに真実があるのかもと思わせるものになっています。