爽風上々のブログ

熊本の片田舎に住むリタイア読書人がその時々の心に触れたものを書き散らしています。読んだ本の感想がメインですが(読書記録)、エネルギー問題、食品問題など、また政治経済・環境問題など興味のあるものには触れていきます。

「科学者はなぜ一番のりをめざすか」小山慶太著

科学者が発見を発表するのは一番最初でなければ意味がないということになっていますが、昔からそうだったわけではありません。
しかし、現在ではそういった先陣争いというものが非常に厳しくなっており、それが去年の理研の騒動の一因でもあるわけです。慎重な吟味ということよりもとにかく他より早く発表するということが第一になってしまっています。
本書はそういった実態の紹介ということに限っており、現状をどうしようとか、どういった風になれば良いとかそういう方向の議論をしているわけではありません。講談社ブルーバックスですので、初心者向けに科学界というものはこういったものだという説明ということです。

一番のりを目指すというと、探検や冒険といった分野でもおなじみですが、北極点一番のりとか、月旅行一番のりというのを競争でやってきたという歴史はあります。科学の世界でも物質の発見、学説の確立等々、最初に発表した者の名だけが残り、二番手以降はまったく一顧だにされません。
しかし、近代以前にはこのような状況は存在せず、かえって知りえた知識は秘伝として一門だけにとどめ、絶対に外部には漏らさないというのが一般的であったようです。古代ギリシアの科学も高度なものでしたが、それらは発表して名声を高めるというものではなく、一種の教団や秘密結社のような中でのみ知られるものでした。

そのような状況が一気に変わっていったのはルネサンス以降のようで、ガリレオなども天文学上の発見を本として出版することで先取権を主張するということをしています。しかし当時はまだその手法が定まっておらず、友人への手紙に記載したり、発表しない文書にしておきあとから出したり、暗号で残しておいたりということもあってなかなかすっきりとした決着をつけられなかったようです。

それがようやく17世紀になってイギリスの王立協会で「哲学会報(Philosophycal Transaction)」という冊子に科学情報が書かれた協会宛の手紙を掲載するという形で整理され、その後のルールの先駆けとなったものです。
そこには協会事務局長のオルデンバーグ宛にその手紙が到着した日付も記されており、それで誰に先取権があるかを明らかにするという、現在でも共通した手法が使われるようになっています。

とはいえ、全部が全部それですっきりというわけもなく、その後もアヴォガドロの論文やカルノーの論文、メンデルの論文など、書かれてはいたものの世界の知るところとはならなかったために埋もれてしまったという例は頻発しました。再発見されて初めて有名になったものです。挙げた三人はいずれも亡くなってのちに認められました。

科学論文というものは特許とは異なり先取したからといって金銭的に効力を発揮するものではありませんが、名誉というものが得られます。そして現在ではそれ以外にノーベル賞などの顕彰もあります。それにも先取者しか権利はありません。今後も一番のり争いは続くのでしょう。