爽風上々のブログ

熊本の片田舎に住むリタイア読書人がその時々の心に触れたものを書き散らしています。読んだ本の感想がメインですが(読書記録)、エネルギー問題、食品問題など、また政治経済・環境問題など興味のあるものには触れていきます。

「150年前の科学誌『NATURE』には何が書かれていたのか」瀧澤美奈子著

「NATURE」といえば科学論文の発表舞台としては「SCIENCE」と並んで世界最高峰と言えるものでしょう。

そのNATUREがイギリスで創刊されたのが1869年、ほぼ150年前でした。

 

それは日本では幕府が倒れ明治政府ができて直後のことです。

その当時のNATUREには何が書かれていたのか、そしてその後どういった風に発展していったのか。

それを見直してみると、現代まで通じるものがいろいろとあるようです。

 

創刊したのはノーマン・ロッキャーという人物でした。

彼は当時33歳でしたが、すでに天文学で業績が認められ、その直前には英国王立協会のフェローに選ばれていました。

学者としても一定の成功を収めたのですが、当時のイギリスの科学的な発展の中で科学系定期刊行物の出版ラッシュが起きており、そこで週刊の学術誌の発行ということを目指します。

その前から、ロッキャーはトーマス・H・ハクスリーやその友人たちとも交流をしており、彼ら(Xクラブ)の面々とも親交を深めており、NATUREは初期の頃からそういった人々の寄稿を受けたということも恵まれていたのかもしれません。

 

NATUREは創刊から実に30年間も赤字でした。

しかし出版社の理解もあり、科学振興という目的のために出版を続けることができました。

また、出版当時から「Letters to the Editor」という欄を設け、これが実質的に読者の投稿欄となってしました。

ここでの掲載論文に対する読者からの意見交換が重要な科学発展に寄与していたとも言えます。

 

創刊後すぐに掲載された「カッコウの卵は何色か?」という、著名な鳥類学者であったアルフレッド・ニュートンの論文に対し、さまざまな読者が意見を発表した「カッコウの卵の色」論争が初期の話題として大きなものとなりました。

これは、ニュートンが発見した事例で、カッコウは他の鳥の巣に自分の卵を産み落とす「托卵」という習性があることが知られていますが、その際にその鳥の卵に自分の卵の色を似せているのではないかというものです。

これは、進化論とも関わってくる問題を含んでいました。

ただし、「自分が見たのはそうではない」といった読者の意見を呼び起こしやすいものでもあったのが、論争に発展した要因だったのでしょう。

反論をした読者たちは、経歴が知られている人もそうでない人も居たようですが、盛んな論争が起こりました。

NATURE誌上で、専門家の論文に素人が反論するなど、今では考えられませんが、当時はこういった自由な雰囲気だったようです。

 

ダーウィンの進化論はNATURE誌上ではなく単行本の「種の起源」として出版されたのですが、NATURE誌でもその後の反論発表などが行われていました。

NATURE創刊にも関わったハクスリーは「ダーウィンブルドッグ」と異名をとる人物だったので、進化論擁護の論陣もここで発表することがありました。

 

NATURE創刊の頃のイギリスは、科学技術の進歩と言う点では危機感を持っていました。

ドイツやフランスが国家の国をあげての科学支援を始め、その成果が次々と出ているのの、イギリスではなかなかその方向への転換が進みませんでした。

そのため、NATURE誌上でも「国家の科学支援」についての主張が繰り広げられました。

それ以前に産業革命を始めたというイギリスの歴史は自覚していたのですが「我々は世界一の地位を失い失速している」ということを強く意識していたようです。

1851年のロンドン万国博覧会で、工業製品に対して贈られた賞のほとんどをイギリスが獲得していたのに、1867年のパリ万博ではわずかの賞しか獲得できなくなりました。

しかし、生物地理学の創始者のアルフレッド・ウォレスがNATURE誌上に発表したように「趣味の研究に公的資金を支出することは道徳に反する」という意見が社会の多くを占めていました。

これに対し、ロッキャーなどは「基礎科学にこそ国の支援が必要」という立場から論陣を張り、その主張がやがて国の政策に影響を与えることになります。

 

創刊当時のNATUREが大きな興味を示していたのが、当時開国間もなかった「日本」でした。

エドワード・モース大森貝塚の発見記事を発表したのも、1877年11月29日号のNATURE誌でした。

モースはアメリカでも貝塚の研究をしており、日本にやってきた時もその存在を注視していたので、大森貝塚の発見も決して偶然ではなく、それを求めていたからこそ発見できたのでした。

なお、その3年後にディキンズと言う人物がやはりNATURE誌にそれに関連する間違った文書を発表しましたが、それに反論する記事をすぐに投稿したのが、当時イギリスに留学していた杉浦重剛という人物でした。

 

ただし、NATURE誌上に始めて登場した日本人はその5年前、1872年に医学雑誌「British Medical Journal」からの転載で掲載された「日本人留学生の優秀さ」というもので、Sasumi Satooと紹介されている佐藤進でした。

1869年にベルリン大学医学部に入り1874年にアジア人初の医学士の学位を取得したというものだったそうです。

 

なお、NATUREに最も多くの論文が掲載された日本人は南方熊楠で、50編にのぼります。

寺田寅彦も初期のNATUREに10本の論文が掲載されました。

ただし、南方は「ネーチュール」寺田は「ネチュアー」と呼んでいたそうです。

 

その後、NATUREは科学誌としての権威となり、レントゲンによるX線の発見(1896年)、マイトナーとフリッシュの核分裂反応(1936年)、ワトソンとクリックのDNA構造(1853年)、ウィルソンのプレートテクトニクス説(1966年)、ホーキングによるブラックホールの蒸発(1974年)など、科学の各分野の重要な論文が発表されてきました。

今後も科学界の重要な位置を占めていくでしょう。

 

150年前の科学誌『NATURE』には何が書かれていたのか