今放送中の大河ドラマでも信長の家臣の謀反が描かれており、ちょうどこの前の放送で最後の謀反、本能寺の変が流れていましたが、そこの事情は戦国の常の下克上といったものとは少し違ったものがあったように感じていました。
このあたりの事情を専門の歴史研究者ではないようですが、著者が丹念に調べたものです。
尾張の小領主であった頃にはもちろん家臣を頻繁に断罪というわけには行かなかったでしょうが、急激に拡大して新領地を手にするようになると様々な状況が出てきたようです。
丹波や越前など、侵攻していってほとんどの領主は降伏して配下に入り、いくつかの反抗者を攻め滅ぼして征服完了というところでは、降伏した在地の領主の支配権をそのまま認めざるを得ません。しかし、支配をいきわたらせるためにはそのままで終わるはずも無く、いずれはなんらかの口実をつけて旧支配者を入れ替えることになるのですが、それもすこし荒っぽかったようです。
また尾張時代からの旧臣も働きが悪いといっては追放などと言うことも行っており、佐久間信盛も一発で放り出されています。
このような家臣の使い方と言うものに対して家臣側からの疑念も強く、それが荒木村重や明智光秀の謀反にもつながってきたようです。
天下平定という大きな変革を成し遂げるにはそこまでするような極端な性格が必要だったのかもしれませんが、それが絶えず謀反を引き起こしていたというのも切り離せないものだったのでしょう。
まあ、なるべくしてなり、豊臣・徳川に美味しいところをさらわれるというのも必然だったのかも知れません。