爽風上々のブログ

熊本の片田舎に住むリタイア読書人がその時々の心に触れたものを書き散らしています。読んだ本の感想がメインですが(読書記録)、エネルギー問題、食品問題など、また政治経済・環境問題など興味のあるものには触れていきます。

「戦国大名の戦さ事情」渡邊大門著

歴史を扱う映画やドラマでは相変わらず一番の人気が戦国時代のようです。

その中でのクライマックスは何と言っても戦さのシーン。

甲冑に身を包んだ騎馬武者が駆け回ります。

しかしどうやらその実像というものは、普通にドラマで見ることができるものとはかなり異なるようです。

そういった戦いの実情について、この時代の研究が専門の歴史学者渡邊大門さんが解説します。

 

まず「戦国時代」という時期の定義がそれほどはっきりしたものではありません。

応仁の乱からという説が普通ですが、それ以外にも明応2年(1493)の明応の政変、享徳3年(1455)の享徳の乱を画期とする説もあります。

終期は天正元年(1573)に織田信長室町幕府将軍足利義昭を追放し室町幕府が滅亡した時点とするのが通説ですがこれにも異論はあります。

 

戦国大名と言われる大名も大小さまざまですが、その出自も時代により違いがあります。

初期には室町幕府により任じられた各国の守護からその国を領国としたものが多かったのですが、徐々に下克上により臣下に取って代わられるという例が増えていきます。

 

なお、臣下と言ってもその家の家臣であったものもあり、また領国の有力者がそのまま仕えたものもあり、地域差もありと様々だったようです。

 

後期になると職業軍人とも言える人々が増えてくるのですが、初期には在地の領主がそのまま臣下であり戦争の時には一族を引き連れて参戦するものの、通常は領地で自らも農作業にあたるというのが普通でした。

しかし領国が拡大し新たな臣下を採用すると城下町に住まわせ戦だけに従事させるということになり、さらに在地の領主も強制的に城下に移住させるといったことにもなります。

ところが、その令にしたがって城下に移住してきたはずの臣下の一族が実際には元の領地に止まり城下には主人が一人だけで住んでいたと言うことが明るみに出て、処罰されたという事件もあったそうです。

 

軍装と武具という項目では、鎧兜といった甲冑と武器について解説されています。

源平合戦の頃の鎧兜と、戦国末期のものとでは見るからに違うということは分かりますが、平安時代のものは馬に乗った騎馬武者が弓矢で射合うという騎射戦が普通であったためにその防御のための大鎧というものが適していました。

しかし南北朝以降には徒歩で槍などで撃ち合う徒歩戦となったため軽量で丈夫な胴丸という鎧が普通となったそうです。

武器も刀を振りかざしてというポーズが思い浮かびますが、それよりも弓矢戦、そして槍を揃えての戦、さらには石礫を投げるというものが多かったようです。

特に、石礫を投げ合うというのは武器を揃える費用もかからない割には効果が高く、それに当たっての死傷者というのもかなりの数に上ったようです。

 

応仁の乱以降には騎馬武者の一騎討ちよりは足軽による戦が重要視されるようになり、それと共に槍の重要性が注目されていきます。

越前の大名朝倉孝景が書き残している文章に、名刀を高い金を出して集めることを戒めるものがあります。

一万疋の金(現在の貨幣価値で一千万円程度)があるなら、それで名刀1本を買うよりは1本百疋の槍を100本買って雑兵に持たせた方が良いと書かれています。

 

戦場では軍配や軍扇を大将や軍師が振るってその指図と共に兵たちが動くというシーンがドラマには出てきますが、とてもそのように統一の取れた戦ではなかったようです。

繰り返し軍令、軍法が出ていても抜け駆け、先駆けが絶えず、先陣の部隊に紛れ込んでしまったりといったトラブルが頻発していました。

大坂の陣真田丸に攻めかかった加賀前田の軍が大敗したのも、こういった軍の統制が取れていなかったのが要因だったようです。

 

こういった戦いの実情を見ていくと、我らの祖先たちが必死に戦っていた状況というものが身近に感じられます。