江戸時代の大名の領国を著すのに五万石や百万石など米の生産高だけで呼ぶというところから、昔は稲の生産のみが注目されていたかのように考えがちですが、当然のことながら畑の生産というものも昔から行われていたのは間違いないはずです。しかしやはり正確な記録というものはあまり残っていないようで、そこをあらゆる角度から多くの文献資料を解読して畑生産の歴史を見直してきたというのが、著者の木村教授の研究だそうです。
畑作の歴史研究も少ないとは言え研究は続けられてきましたが、有名なものでは網野善彦氏の「水田中心史観批判」というものもあったようです。しかし、著者は網野氏の主張も逆に行き過ぎたものがあり、水田も畑も同時に作ってきたのが多くの日本の農家であり両方をバランスよく考えなければいけないと語っています。
縄文時代は稲作渡来以前ということなので、そこには畑しかなかったはずですが、その後稲が伝わり主要作物が米と言うことになると政府の管理からも畑というものが隠れていってしまいます。律令体制では「口分田」を収受するということになりますが、それはあくまでも水田だけで、畑地を収受するということはなかったようです。これは住居に付設した設備と見られたためのようです。
大きくそれを変えるのは豊臣秀吉の太閤検地までくだらなければなりません。そこで畑地だけでなく住居地や山地などすべての土地を検地したということです。
しかし、体制の表面では米だけを見ているように見えますが、その裏では雑穀なども考えていたのは明白で、五穀豊穣という言葉はまさにそれを明示しています。五穀豊穣は日本書紀にも現れてきており、それが稲渡来以前からの農耕に由来するのか、稲作と同時に渡来したのかはわからないようです。しかし、律令体制が確立していくにしたがって五穀という捉え方は影をひそめ米だけに絞られていったようです。
米生産重視の体制の中でもやはり庶民の食糧としての雑穀の生産というのは重要視されていたようで、そういった布告が時折出されたものが残っているようです。また延喜式と同時代に書かれた和名類聚抄には畑作で作られる作物が数十種も書かれており、産業としても重要であることがわかります。
なお、米中心の体制で税も米という建前ですが、畑作物にも税はかけられており様々な形で取り上げていたようです。
平安時代末期や室町時代など、大開墾時代とも言うべき大きな新田開発が実施された時代があったようですが、これらもまったくの未開地を水田にしたということではないのではないかと言うのが著者の推察です。おそらく畑地として耕作されていた土地を水利設備を付加することにより水田化したのではないかということですが、これもそう見たほうが合理的かもしれません。
水田だけの米生産であれば、米の収穫の9月ごろの直前は食べ物がもっとも少なくなるはずで、飢饉の発生が多いはずですが記録上はそれは5月になるそうです。ということは、麦など畑作の生産物で一息つけるということがあったからに他ならず、8月の盂蘭盆や夏祭りといったものも畑生産物で行われ、寸前に迫った米の収穫を期待して待つという意味があったということで、これも生活感覚として納得できます。
農業国といわれながら、畑の生産を忘れていたらその意味が全く分からなかったかもしれません。貴重な観点を教えてもらいました。