爽風上々のブログ

熊本の片田舎に住むリタイア読書人がその時々の心に触れたものを書き散らしています。読んだ本の感想がメインですが(読書記録)、エネルギー問題、食品問題など、また政治経済・環境問題など興味のあるものには触れていきます。

「倭人への道 人骨の謎を追って」中橋孝博著

著者は人骨を専門とする考古学者ということです。

したがって、DNA分析が主流の現代の進化学界とは少々捉え方が異なっているようで、新人(ホモ・サピエンス)のアフリカ起源説がほとんど主流となっているのですが、著者はネアンデルタール人と新人との混血が起きている証拠があることから、それに異議を唱えています。

 (ホモ・サピエンスネアンデルタール人は核DNAの分析の結果から10%程度の混血があると言うことが分かってきました。それでは新人の単一起源とは言えないのではないかというのが著者の主張だと思います。間違ってたらごめんなさい)

 

縄文時代に日本列島に住んでいた人たちがどういうところから来たのかということはまだ解明されていません。

しかし、弥生人と呼ばれる人々は縄文人とは大きく異なる形質で出現したというのは確かなようです。

1955年頃に山口県の土井ヶ浜遺跡と佐賀県の三津永田遺跡で弥生時代の人骨が大量に出土しました。

その弥生人たちの骨から復元された体格や風貌は縄文人とはまったく異なるものであり、しかも現代人に極めて近いものでした。

ここで始めて、「弥生人渡来説」というものが確かな証拠を持って語られるようになります。

 

弥生人がそれでは大陸のどこからやってきたのか、近い関係にある人々が残っているのかといった問題は大陸での人々の移動が激しいためになかなか分からないようです。

江蘇省で著者が調査した春秋時代から漢代の人骨は、弥生人と似ているものもあったようです。

また他の地域でも部分的にそのような形質が見られることもあるのですが、それが日本へ渡ってきた人たちの足跡を表しているとまでは言えないようです。

その時期に北部九州で水田での水稲栽培が始まっていることから、その起源の地である中国江南からの渡来ということを考える人もいますが、必ずしも水稲を携え水田構築の知識を持った人たちが一団となってやってきてすぐに日本各地に広まったと考えるのも行き過ぎのようです。

北部九州の、弥生時代初期に大陸の様式で作られた支石墓に葬られていた男性の特徴が縄文人そのままであった例もあるそうです。

弥生人が大量に渡来しそのまま縄文人を追い払って弥生文化を作ったと言うイメージとは違う事実があったのかもしれません。

 

倭人への道: 人骨の謎を追って (歴史文化ライブラリー)

倭人への道: 人骨の謎を追って (歴史文化ライブラリー)