爽風上々のブログ

熊本の片田舎に住むリタイア読書人がその時々の心に触れたものを書き散らしています。読んだ本の感想がメインですが(読書記録)、エネルギー問題、食品問題など、また政治経済・環境問題など興味のあるものには触れていきます。

「ケネディ 神話と実像」土田宏著

アメリカ政治専攻の城西国際大学の土田教授がケネディー元大統領についてその生い立ちから暗殺までの一生を振り返ったものです。
ちょうど、その遺児のキャロラインさんがアメリカの日本大使として着任し様々な行動言動がマスコミに取り上げられています。アメリカ大使の注目度としてはこれまでにないものですが、これもいまだに続くケネディ人気によるものでしょう。しかし、当のケネディー大統領の事跡については実ははっきりとは知りませんでした。改めてどのような人だったのか見直すには良い機会だったかも知れません。

ジョンFケネディーはボストンのアイルランド移民ジョセフの二男として誕生しました。ジョセフはアイルランド生れで30歳の時にアメリカに移民してきました。貧しい境遇でしたが努力の末に巨万の富を築きました。経済的な成功はしましたが、政治的にも成功したいと言う希望を子供に託しました。良く知られているように、長男のジョーに期待をかけて教育しました。そのために二男のジョンにはあまり期待が向かなかったようです。
ジョンは子供の頃から病弱で原因不明の発疹と咽頭炎が続いたようです。当時の治療法としてステロイド薬の過剰投与が続きました。後の病気にはその治療の副作用と言う原因もあったようです。
しかし、青年になるとなんとか体調も回復し大学にも進学できました。しかしそこでの成績も優等生の兄とは異なりさほどではなかったようです。
戦争が始まり、兄は志願して入隊しジョンも続いて入隊を希望しますが、身体測定で落とされます。しかし父親の政治力でなんとか海軍予備隊に入りました。その後南太平洋で魚雷艇の艇長となることができました。しかし日本の駆逐艦と衝突し沈没してしまいます。生き残った部下とともに無人島に泳ぎ着きますがそれから一人で助けを求め泳いだことでなんとか味方に発見され救出されました。その行動で英雄と称えられることになりました。
その後体調も悪化し病気にも感染したため退役することとなりましたが、その頃に兄ジョーと義弟が相次いで戦死してしまいます。

父親の政界への期待は兄に代わりジョンに集中してしまうことになります。戦後すぐの46年にまず下院議員を目指すことになります。富豪の金権選挙であるとか、カトリック教徒であることなどライバルの攻撃は激しいものでしたが、それらを逆手に取ったような選挙戦で当選を果たします。
下院議員となっても当時の政界は民主党内でもリベラルと保守派の争いは激しく、またベテランのボス議員の締め付けも厳しくその中での立場の主張というのは困難であったようです。しかし、反共であることは間違いないものの労働運動に対しては労働者側の立場をとり、また労働組合の特権的な幹部に対する攻撃もしたようです。
その後すぐに上院議員に挑戦します。その頃には8歳年下の弟ロバートの協力も受け、強力なスタッフとなりました。
上院議員に当選した直後に、ジャクリーン・ブーヴィエと結婚します。フランス人の血を引くという父親ですが、のちに母は離婚しています。しかし、ジョンの父親ジョセフには大統領夫人として申し分のない女性と映ったようで、父の意向もありジョンはジャクリーンにプロポーズしたようです。

その当時、以前から親交のあったマッカーシーが主導して「赤狩り」という大きな動きがありました。ジョンは最初はマッカーシーの主張に賛同してしまいますが、そのうちに彼の主張に何の根拠も無いことに気付き困惑を深めます。それがジャクリーンとの結婚生活の不調にもつながったということです。またその頃に病気の具合も悪化してしまったと言うこともあったようです。

1956年の大統領選挙では共和党は体調が悪化しながらもアイゼンハワーが立候補するのに対し、民主党はアドレイ・スティーブンソンが候補者となりました。その副大統領候補になろうとジョンは活発に活動します。しかし、わずかの差で破れこの回は候補とはなれませんでした。
しかし、その年にできた労働組合の不正を調査する上院委員会のメンバーとなり、特にトラック運転手の組合の幹部の不正に立ち向かうことになります。

1960年には大統領選挙への立候補を決意し挑戦します。民主党の指名争いではリンドン・ジョンソンと争い、ジョンソンの金権批判、カトリック批判などの攻撃に反撃し民主党の候補者氏名を受けることとなります。
本選では共和党のニクソン候補と戦いますが、ジョンは直接討論を仕掛け、ニクソンはあえて受ける必要もなかったのにテレビ討論を受けることになります。これが有名な逆転劇でした。疲れ果てたようなニクソンに比べ、見栄えの良くなるように周到に準備したジョンの戦略は見事に当たり、ラジオで聞いた人はニクソン有利と受け取ったのにテレビで見た人は圧倒的にジョン支持に回ります。
選挙結果ではニクソンを圧倒し、カトリック初で、しかも選挙で選ばれた中では最年少の大統領が誕生しました。

大統領就任の演説では有名な「国が何をしてくれるかではなく、国のために何ができるかを問え」という言葉を入れ、しかも非常に短くまとめたスピーチをすることで国民の心をさらに掴んでしまいます。
しかし、就任直後には亡命キューバ人のキューバ侵攻への関与、そしてベルリン危機とソ連との関係は急激に悪化します。そして最大の危機が62年後半に起こったキューバのミサイル問題になります。ソ連キューバ社会主義政権を守ると言う名目でミサイルを配備しますが、それは守備のための迎撃ミサイルではなく攻撃用ミサイルでした。キューバにそれらが配備されればアメリカ全土が危機にさらされると言うことになり、アメリカ政権内はその対応に苦慮します。軍部やそれを支持する人々は即時攻撃を主張しますが、それはソ連との全面戦争につながる恐れが強いと言う危惧を抱いたジョンは何とか交渉で打開しようと努力します。
フルシチョフとのぎりぎりの交渉の結果、なんとかキューバからのミサイル撤退を成し遂げ、危機を突破しますがそのことが弱腰外交と言う内からの攻撃につながり、それが暗殺にもつながったいうことです。

その後はアメリカ南部の激化する人種差別に対しての公民権法の提案や、労組幹部の腐敗追及に力を入れアメリカ内部の保守派との緊張が高まります。
また、ベトナムに対する軍事介入にも引き込まれてしまいますが、一応撤退の道も考えていたと言うことです。これは暗殺により絶たれ、その後あとを継いだジョンソン大統領が介入強化の道を選んだため悪化したということですが、どうでしょうか。

そして1963年11月のダラスでの暗殺につながってしまいます。この辺は諸説が多いようですが、著者は犯人として捕まりその後射殺されたオズワルドは真犯人ではなく、当時の軍関係者のアーリー・バークだという説を採っています。
著者も書いているように、ちょうどその暗殺は日米間で始めてのテレビの宇宙中継が行われた日であり、本来ならばその挨拶を大統領がするところがいきなり大統領暗殺の報道となったということです。著者はその当時高校生で大きなショックを受け、さらにその後の事件調査のウォレス報告のデタラメさにあきれてそれが人生を変えたそうです。私も小学生でしたがその映像は見た覚えがあります。

いろいろな強い影響をアメリカや日本など全世界に及ぼしたジョン・F・ケネディでした。