爽風上々のブログ

熊本の片田舎に住むリタイア読書人がその時々の心に触れたものを書き散らしています。読んだ本の感想がメインですが(読書記録)、エネルギー問題、食品問題など、また政治経済・環境問題など興味のあるものには触れていきます。

「白川静の世界 Ⅰ文字」立命館大学白川静記念東洋文字文化研究所編

甲骨文字の研究などで大きな業績を挙げた白川静博士の業績について、白川氏の功績を顕彰しさらに広めるために設立された文字文化研究所の白川博士の門下の方々によりまとめられたものです。
第1巻は「文字」ということで、業績の中でも最大のものと言える漢字研究についてです。

漢字は中国古代の殷(商)王朝の時にまとめられたと考えられていますが、その初期の姿は甲骨文字という殷王朝での占いの結果を記した骨の破片に見られます。しかし、これらの骨は実は最近になって発掘されたものであり、それまでは金文といった周王朝の時代になって作られた青銅器に彫られた文字や、その後の時代に使われていた文字しか分かっていませんでした。これは秦漢の時代でも同様で、現代から見るとほとんど古代と言えるようなそれらの時代でも漢字発祥からはすでに1000年以上経って居り、最初の意味は忘れられていました。
その頃に著された後漢の許慎による「説文解字」という書物が漢字研究の古典としてその後2000年近くにわたり聖書として扱われてきましたが、白川博士の甲骨文字の詳細な研究により説文解字の説明が全く誤りであることが判明した例がいくつも出てきました。
例えば、説文解字では部首として「一」が建てられ、そこに「天」などの文字が入れられていますが、甲骨文字で見るとその部首として取られている「一」の部分にはふくらみがあり、とても一とは考えられないとか。こういったことは許慎にとってはその当時の知識からは不可能であったことですが、白川博士の研究で初めて最初の意味が明らかになったと言えるでしょう。

白川博士が漢字研究に至るまでには、実は万葉集に対する深い興味から始まったと言うことがあります。万葉集を調べるうちに非常に似通っていた中国の詩経に興味を移し、さらにその解釈に疑問を持ちながら漢字の起源の研究に進んだそうです。
また、研究の成果を日本現代の人々に伝えたいと言う普及活動にも大きな意欲を示し、字統、字通、字訓の3つの著作を発表し大きな成果を上げました。これらの業績についても本書には詳しい解説がされています。

その他、本書に触れられていることには、

漢字の筆順について、筆順なるものは諸説がありまた時代による変遷も大きくとても一定とは言えませんが、日本では戦後になって政府が「筆順指導のてびき」なるものを1958年に決めました。単なる指導上の「手引き」に過ぎないものが過大に評価されそれでなければならないかのような風潮になっているのが最近の状況です。テレビのバラエティ番組などで、「小学校で習う漢字の筆順も知らないか」などという発言は頻繁にされていますが、あほらしいと思う人は少ないのでしょう。「右」の字の筆順はこうだと鬼の首でも取ったように言われていますが、これも台湾や中国では別の筆順で書かれているそうです。

殷周以来、「文」の文字は王の諡号としても最上のものとされてきましたが、もともとはこの文字は文身すなわち刺青の意味だったそうです。殷は東方の海洋民族から興ったと言われており、今でも太平洋の海洋民族には刺青をする風習が多いのですが、それが古代にもあったというようです。王のする高貴な刺青というところからその意味が変わってきたようです。

漢字が日本にやってきた当初は漢文を書き表すためのものであったのですが、それを日本語の表記に用いるようになりました。平仮名、片仮名となる前に漢字そのものを「真仮名」と呼んで使っていたそうです。それと同じ意味の大和言葉に当てはめて「訓読み」ができてきました。しかし、その頃日本になかったものには大和言葉がありませんので、訓読みもないということだったようです。「菊」という植物は当時は日本にはなかったので訓読みがなく、キクという音読みだけになったそうです。馬、梅なども同様で、これらも実は音読みだと言うことです。馬は通常はバが音読み、ウマは訓読みと扱われていますが、そもそもは違うと言うことでしょう。

白川博士は漢字の再評価が東洋文化全部の再興になるという信念を持っておられたようです。教育普及もその一環でしたし、戦後の漢字をめぐる制度改悪に対しても批判をしてきました。旧字体も今ではほとんどの人になじみがなくなってしまいましたが、一つ一つ見直していくべきなのかも知れません。