爽風上々のブログ

熊本の片田舎に住むリタイア読書人がその時々の心に触れたものを書き散らしています。読んだ本の感想がメインですが(読書記録)、エネルギー問題、食品問題など、また政治経済・環境問題など興味のあるものには触れていきます。

エネルギー文明論「道徳の話、数千万年の遺産の化石燃料を今の世代だけで消費してよいのか」

ここはエネルギー源の正確な残量や、新技術の評価などの科学的な見方を一時保留しておいて、「道徳」と言う観念から考え直さねばいけないものと思います。
道徳といっても、一部の右翼政治家が言っている様な愛国などの極めて局部的な面だけに矮小化しそれに資するためだけの陳腐なものと同一視されては困ります。人間として正義を信じるならば取らなければならない行動ということです。神を信じるものならそちらでも構いませんが、妄信はしないで自分で考えて頂ければと思います。

正義などと言い出しても経済が第一とか、食べられなければだめとか、そういった意見が大勢を占めているのは間違いないでしょう。それで本当に良いのかどうか、まったく疑問を持たない人間も多いのでしょうが、最悪の場合には精神の救いも無く破滅するだけでしょう。

その正義の対象とは、「少なく見積もっても数千万年の時間が作り出した化石燃料というエネルギーをせいぜい数百年、人間の世代で言っても一桁で収まる範囲の者だけで使い果たして良いのかどうか」ということです。
それに対しては、「新エネルギーの開発をしている」という言い訳があります。しかし、それらは大きすぎるか、小さすぎるか、危険すぎるか、いずれもまだ実用化しているとは言い難いものです。
たとえそれらのどれかが今後実用化されることになったとしようと、現在はまだ不明確であることは間違いがありません。

そのような、「絶対に次のエネルギーがあるとは確定していない状況」で現在残されている化石エネルギーを漫然と使い続けているのは正義だろうかということです。確実な別のエネルギーで完全に自立できた場合にはたとえ枯渇するものであっても使い続けることは、まあ是認できるかもしれません。しかし、それ以前にはそういうことをしてはいけないだろうということです。それは化石エネルギーに形を変えている古代の藻類や植物に対する冒涜であり、また最悪の場合に地獄の苦しみを味わうことになる我々の子孫の世代に対する裏切りになるでしょう。

「経済活性化」だけがすべてに優越するかのような相次ぐ施策を発表している政治家がもてはやされる昨今です。その失敗とその時のボロボロになった彼の姿も目に見えるかのように容易に想像できますが、それはともかくとして、かわいい自分たちの孫子のために化石エネルギーの使用を大きく削減すること。これはまあ温暖化対策とやらにもなるわけですが、その意味は不明確であっても方策としては共通しています。
これらは即時に、全世界的に始めなければなりません。