爽風上々のブログ

熊本の片田舎に住むリタイア読書人がその時々の心に触れたものを書き散らしています。読んだ本の感想がメインですが(読書記録)、エネルギー問題、食品問題など、また政治経済・環境問題など興味のあるものには触れていきます。

「鬼平犯科帳(十五)」池波正太郎著

この第十五巻は他の巻とは異なり一冊で「特別長編”雲竜剣”」となっています。

初出発表は月刊誌”オール讀物”に七ヵ月に渡り連載されていますので、一編ごとに題名は付けられていますが、長編小説として続いた内容となっています。

火盗改めの与力同心が続けざまに殺害されるという事件から始まり、それの対策で火盗改めの動きが制限されるなか、江戸市中で大規模な押し込み強盗が発生するという危機的状況に堕とされた平蔵たちがかすかな手がかりから探索を進め本丸に迫っていくという非常にスリリングな展開です。

 

その秘めた謎もなかなか明らかにはされず、その概要が示されるのがようやく最終編になってからというもので、推理小説的要素も強く持っている構成です。

したがって、もしもこの本を読もうという方には最後の謎解きを明かされてしまうと興ざめですので、次の解説は読まれない方がよろしいかと。

 

「赤い空」火盗改同心片山慶次郎が殺害されますが、その少し前に平蔵も恐ろしい剣客に襲われ、片山の傷からその相手が同一ではと疑い、その太刀筋から昔剣術を習った高杉先生から聞いた堀本伯道という剣客に思い至り、その関係を探るため盟友岸井左馬之助を常陸の牛久に調べに送ります。

ちょうどその頃、密偵の平野屋源助のところに旧知の鍵師助治郎が現れるのですが、助治郎も牛久を目指して去ります。

 

「剣客医者」片山に続き同心金子清五郎も殺害されて発見、これは火盗改への挑戦に違いないとして非常事態対応体制としますが、その隙をつくかのように薬種屋長崎屋に兇盗が押し入り家族奉公人を皆殺しの上金を盗むという事件が発生します。

平蔵は恩師の話の剣客医者堀本伯道との関連を強く疑うのですが、肝心の恩師の言葉が思い出せません。

 

「闇」牛久に赴いた左馬之助と五郎蔵は伯道の足取りを探りますが、すでに三十年以上も前のことでほとんど知る人もなくわずかな話を聞くのみでした。

そのさなかに鍵師の助治郎と出くわしますが、怪しいとにらんだ助治郎はすぐに江戸に立ち戻ります。

また正体不明の剣客に左馬之助が襲われるという事件も発生、ますます混迷を深めます。

 

「流れ星」牛久から逃げ帰った助治郎は源助を疑うこともなくその店に転がり込み一晩休息を取ったのちまた旅立ちますが、すでに連絡を受けていた火盗改は木村忠吾たちを尾行につけます。

助治郎は藤沢を過ぎ南湖の松林の中の小屋に入りますが、そこは貧しい人々を住まわせて衣食を施す報謝宿というところで、助治郎はそこに金を出しているのでした。

探索を進める平蔵は街角で三人の浪人に襲われます。

 

「急変の日」浪人を倒しますが、捕らえられた一人はすぐに自害します。そして火盗改の役宅の門番が殺害されます。

ちょうどその頃、相州南湖の報謝宿の助治郎のもとに訪問者がありました。

木村忠吾と共に監視に当たっていた同心吉田藤七はそれが堀本伯道であることを見破り、助治郎と伯道の手下たちが小田原の鍵つくりの鍛冶屋に向かうことを確かめます。

そして平蔵が探索の途中に見た茶店の看板の文字から、高杉先生の言葉「丸子」を思い出し、武蔵の国橘樹の丸子(現在の川崎市丸子)に探索の手を伸ばします。

 

「落ち鱸」丸子にはかつて堀本伯道が剣道場を設けていたことが分かりますが、現在は別の剣客が道場に居ることも分かります。

そして助治郎と別れた伯道一味は逆に江戸に向かいます。

 

秋天清々」伯道一味に的を絞った平蔵はそのあとをつけますが、彼らは自らの盗人宿ではなく息子堀本虎太郎の住処を目指します。

明け方に伯道はそこを急襲し、息子虎太郎を始めその手下たちと切り合い、虎太郎は殺すものも自らも死んでしまいます。

そこに平蔵たちも切り込み、虎太郎一味を捕らえます。

堀本伯道は剣豪であり医者でもあり、さらに盗賊の頭領でもありました。

長年にわたり盗みはしたものの富裕なところからしか盗まず、人を殺傷することも決してしなかったのですが、息子はそれとは異なり殺傷を厭わない畜生働きをするようになったため、自ら成敗する覚悟で息子一味を探していたのでした。

火盗改めの同心たちを殺害し、平蔵にも襲い掛かったのは息子一味でした。

 

 

「水と緑と土 伝統を捨てた社会の行方 改版」富山和子著

本書の初版の出版は1974年、まだ石油ショック前で高度経済成長の最終期とも言える時期です。

その時代にこのような環境重視の提言を行うことができたということには驚きです。

 

著者の富山さんは記者から始めて主に都市問題を扱ってきたということですが、この本では日本の水と緑と土、つまり河川の森林、土壌について考察しています。

そしてそれを特に壊し放題にしてしまったのが高度経済成長期でした。

この本で糾弾しているのも、高い堤防で囲い込んでただただ水を速く海まで流しだそうという治水事業(ことごとく失敗しひどい水害を引き起こしている)、皆伐という愚行を繰り返しはげ山ばかりにして森林が失われるばかりでなくそれで保水性を失い土崩れを引き起こして災害を産み出している林業政策、農業生産を支えているという意識もないまま土壌を流出させる農業政策です。

 

ただし、もう50年以上も前の知識ですので、現在の理論とは少し違いもあり、例えば森林の雨水の保水性をかなり高く見積もっていますが、それほどは無いというように変化はしていますが、それでも本書の主張の多くは現在でも十分に通用するものと思います。

そして、当時よりさらに水・緑・土をないがしろにしているのが現在の日本なのでしょう。

 

河川の両側に高い堤防を連続して建設し洪水を防ごうという方針を高水工事というそうです。

これは明治29年の河川法制定で取られた政策でそれ以降日本の河川政策の基本となってきました。

それ以前の政策を低水工事と呼び、これは河川の水を農業用水として確保するとともに、下流部における舟運を重要視したものでした。

そこでは堤防を築くことで洪水を防ぐのではなく、霞提、乗り越え堤といった低い堤防で洪水の場合は遊水地に水を逃がして洪水の力を弱めることを目指しました。

流れを弱めるように誘導したのですが、これは高水工事において水をできるだけ速く海に流してしまうという姿勢とは全く違います。

降雨量の違いもあるかもしれませんが、高水工事が始まってからの方が洪水被害が大きくなったようです。

 

洪水を恐れて高堤防化した一方で、都市部での水需要が非常に大きくなり水不足問題が大きくなったのもこの時期でした。

そのため大河川の上流部に大きなダムを作るといったことが続きました。

下流部の河川での水の供給源をつぶし、排水も土に返さずに捨てておきながら、上流の自然をつぶしてダムとしたわけです。

しかし日本のダムは土砂の流入量が非常に多いために作ったダムもすぐに貯水量が減少し役に立たなくなっていきます。

 

日本の林業というものは戦後になり海外から安い木材輸入が増加することで衰退しました。

本の森林の3分の2は民有林ですが、そのほとんどは小規模で農家の傍ら裏山の木を切るといった零細なものです。

こうした中、国有林だけは外部経済に左右されることなく健全な運営がされ得るものだったはずですが、国有林運営は林野庁による独立採算制が取られたためにその運営費を儲けるための木材切りだしということが行われました。

そこでは徹底した合理化が行われ、かつては大木のみを伐採し谷に落として水流で流すというものだったのが、全ての木を伐りだし大規模林道を建設してそこで運び出すということになってしまいました。

ラクターでの伐採やエンジン付きのワイヤーロープによる搬出などの技術が使われ、見る見る間に国有林の多くがはげ山とされてしまいました。

 

水・緑・土の収奪というのが経済成長だったのですが、これはすべて都市化ということと関わります。

地方を捨てて都会だけにしてきたのが近代日本だったということなのでしょう。

 

なかなか格調高く、日本の環境問題を的確に指摘したものだと感じました。

この本の存在も知らずにいたのが少し恥ずかしくなります。

 

 

「脱毛の歴史」レベッカ・M・ハージグ著

現代のアメリカでは体毛は忌み嫌われているかのようで、頭髪以外の毛というものは存在を許されないかのようです。(男性のヒゲは除く?)

しかしこういった風潮はずっと続いていたわけではなく、様々な歴史的変遷があったようです。

 

アメリカにやってきたヨーロッパ出身者たちは原住民、いわゆるインディアンたちと交流し戦いながら勢力を伸ばしていったのですが、インディアンの風習として体毛を除去する(毛根から抜く)というものを見て驚きました。

男でも女でも暇さえあれば毛をつまんで引き抜いていたのです。

彼らはそれを未開人の野蛮な行為だとみなしました。

 

しかしそのすぐ後には自分たちが体毛の除去に励むこととなります。

18世紀の人々は体毛のない肌への執着は先住民のみの特異なものと考えていましたが、その後女性の目に見える体毛は衛生観念の欠如の表れで汚らわしく有害だとされるようになりました。

19世紀にはひげのある女性、体毛の濃い人々は見世物小屋の看板ともなっていました。

20世紀には体毛のない手足というものの重要性が強調されるような脱毛剤の広告などが目立つようになります。

 

ただし、その頃はまだカミソリというものが非常に危険なものであり、とても普段から使えるようなものではありませんでした。

まだ安全カミソリなるものも発明されず、小刀のような剝き出しの刃でしかも現代のような効果的なシェービングクリームもなく、下手すると血だらけになるようなものでした。

しかしその代替として流行っていたのは怪しげな化学薬品で脱毛どころか皮膚の損傷になるものも多かったようです。

 

キング・キャンプ・ジレットが考案し1903年に発売したT字型の安全カミソリというものは急激に普及しました。

ただし、やはりそれは最初は男性の髭剃り用としてのものという印象が強く、それを女性が使うということには抵抗があったようです。(夫のカミソリを妻が隠れて使う)

 

X線を照射する脱毛サロンというものも流行りました。

それ以前にあった、電気を使ったニードル除毛という脱毛法は非常に手間がかかり実施者の技術も必要だったのですが、X線は高い装置さえ備えれば楽にできたようです。

ただし、1910年代になると放射線被爆の危険性が医者たちの間では広まりましたが、世間では変わらずに一般向けのX線脱毛サロンが開業し続けました。

原爆投下を伝え聞いたこともその終焉に作用したようです。

 

男性ホルモンの過多が多毛につながると考え、その生産をしている腺の外科的除去といった方向にも進んでしまいました。

しかしそういったことの身体的な影響が当然ながら多発し、美容的目的としては制限されることになります。

 

今でもあちこちで行われているのが、ブラジリアン・ワックス法というものとレーザー除毛です。

ワックス除毛は一回で済むものではなく定期的にやらねばならず、またその痛みも激しいものですが、それに耐えて実施する人が多数です。

レーザーは実施者の技量が問題となり、うまい施術者には高額の料金を取るものもいますが、それを払ってでもやりたがる人がいます。

 

著者は女性学とジェンダー学の学際研究をやっているということですが、それでも脱毛という対象を研究するということについては周囲からあれこれ言われたということです。

やはりちょっと話しづらいものかもしれないのですが、それでも重要な対象なのかもしれません。

私自身は脱毛というよりは育毛の方が重要ですが。

 

「鬼平犯科帳(十四)」池波正太郎著

この巻では正面から大盗賊との対決というものを扱ってはいませんが、やはり様々な方向から盗賊と関わり合っていきます。

 

「あごひげ三十両」火盗改の与力高田万津之介が酒に酔い大名の家臣と喧嘩という事件を起こしてしまい、平蔵は若年寄堀田摂津守から謹慎を申し渡されます。

そんな時に岸井左馬之助がやってきて、若い頃高杉道場の先輩で、女に身を持ち崩してしまった野崎勘兵衛を見かけたと告げます。

その野崎は老年となり金に困って自らの見事なあごひげを売ろうとしています。

それを能の面に貼り付けようというものでしたが、その代金が三十両

そしてその買い手が堀田摂津守でした。

ひげも剃ってしまっては面に付けられないとして一本一本引き抜こうというもので、それを強引にやろうとする堀田の家来たちに隠れてみていた平蔵たちは怒り追い払います。

 

「尻毛の長右衛門」長く一人働きの盗賊であった、布目の半太郎は尻毛の長右衛門の盗みを助けることとなり、狙いの商家に引き込みとして住み込ませているおすみという一味の女との連絡係を務めていました。

しかしそのおすみという女に惚れられ、連絡の度に情交を重ねるということになってしまいます。

おすみからせがまれ、盗みが終わったら夫婦になる許しを得ようと長右衛門に会いに行くとちょうどその時に長右衛門からおすみを自分の嫁にしようという話を聞かされます。

それに困り果てた半太郎はもはや一味に居ることはできないと置手紙をして去ることにしたのですが、道に出たところで侍に突き当たり、怒った侍に切り殺されてしまいます。

 

「殿さま栄五郎」盗賊に手助けの人手を世話をする口合い人の鷹田の平十は血を見る盗みも厭わない火間虫の虎次郎から人を紹介するように強要され、いやいやながら選んでいたのですが、ちょうどその時に出会ったのが昔馴染みの馬蕗の利平治でした。

今は火盗改めの密偵となっている利平治でしたが、それを隠して話を聞くと助け人が必要ということで、それを平蔵に報せます。

平蔵はそれを聞いて自ら平十と会い、自分が有名な「殿さま栄五郎」であると告げ、火間虫の盗みを手伝うこととします。

喜んだ平十は火間虫にそれを報せ、かくして平蔵は火間虫一味に入り込むこととなります。

しかし火間虫一味には殿さま栄五郎本人を知るものが居り、偽者を紹介した平十は殺されることとなってしまいます。

 

「浮世の顔」江戸から少し離れた田舎道で近所の娘が通りかかった侍に襲われます。

それを見ていた二人組が侍を殴り殺しますが、気絶している娘を一人が犯そうとしもう一人に刺されます。

結局、二人の死骸が並んで見つかるという事態となります。

それが平蔵に連絡されたのは、死んでいた侍の方が平蔵宛ての手紙を持っていたからでした。

その侍は志摩の国鳥羽藩の家臣の息子で父親が殺されたために敵討ちに出ており、その藩にいた平蔵の知り合いからの紹介状を持っていたというものでした。

仕方なく調べを始めた火盗改めですが、死んでいたもう一人が盗賊であることが判明、殺した者も盗賊だろうと探索を進め、凶悪な盗賊神取一味の逮捕につなげます。

 

「五月闇」この話では鬼平犯科帳の中でも人気のあった密偵伊三次が死んでしまいます。

伊三次は盗賊であった頃、仲間の妻を寝取りそれに気づいた仲間を殺そうと切りかかったことがありました。

その相手が伊三次を付け狙っていたのですが、とうとう見つかってしまいます。

切られた伊三次は重傷を負い、しばらく治療をしたものの死んでしまいます。

 

「さむらい松五郎」伊三次の墓は木村忠吾の菩提寺に設けられました。そこに墓参りに行った忠吾はその帰りに須坂の峰蔵という盗賊に声を掛けられるのですが、それが網掛の松五郎、通称「さむらい松五郎」と瓜二つだった忠吾を間違えてのことでした。

うまく話を合わせた忠吾は峰蔵の盗みを手伝うという話をまとめます。

実は峰蔵は今はろくろ首の藤七という盗賊の一味に加わっていますが、その血生臭い盗みぶりには嫌気がさしており、他の頭に乗り換えようとしていたのでした。

それを聞いた平蔵は藤七の探索を進め一気に一網打尽とします。

ここでも本物の「さむらい松五郎」登場の場面があります。

 

 

 

「世界史を変えた金属」田中和明著

人類文明の始まりは石器などだったのかもしれませんが、ごく初期から金属の利用を始め、現在は各種金属が身の回りにあふれているようです。

そういった金属が「世界史を変えた」ということで、歴史に沿って金属との関りをたどっていきます。

 

なお、著者の田中和明さんは製鉄会社に勤務の後、定年退職後は金属部門の技術士をされているという専門家です。

それでも文章の端々にユーモアも感じられるという、読みやすい本となっています。

本は時代ごとに分けて書かれており、金属種ではわかれていません。

鉄だけをたどるというには少し不便かもしれませんが、金属の歴史全般に目を通すには良い構成でしょう。

 

最初は宇宙の誕生から地球の誕生、そして金属元素の誕生というところから始まります。

鉄や銅の元素としては存在していても、それが人類が利用可能となるためには鉄鉱石、銅鉱石とならなければならなかったのですが、それに生物の働きがあったということは知りませんでした。

太古の炭酸の海に溶け込んでいた鉄イオンはシアノバクテリアの作り出した酸素と結合して酸化鉄となりそれが沈殿して初めて鉄鉱石となったそうです。

銅鉱石はそれとは異なりマグマの上昇で海水と接触し蒸気となり岩石中の硫化物を溶かしだして海水中に溶け込みそれが再度沈殿して鉱石となったそうです。

 

人類が最初に出会った金属は銅と青銅でした。

銅鉱石は色が鮮やかで見つけやすいもので、さらに燃やした木炭にその鉱石を入れるだけで容易に銅を金属として得ることができました。

しかし柔らかすぎるために道具として使うには不都合でしたが、錫と銅を混ぜて加熱するだけで青銅(ブロンズ)ができるためそちらの利用が進みました。

青銅器が使われたのはBC4000年頃のメソポタミア、エジプト、中国、インダス川流域でしたが、その地域では銅は取れても錫鉱石は取れません。

その時代から交易がおこなわれ離れた地域から運ばれたようです。

 

しかし鉄が使われるようになると各地で青銅器から鉄器に代わっていきました。

溶解や精錬に技術が必要でしたが、強度に優れた鉄器は瞬く間に青銅器を葬り去りました。

日本でも銅鐸・銅矛という青銅器が栄えたのですが、ほぼ同時期にすべて地中に埋められてしまいました。

その理由は分かっていません。

 

金属は様々な用途に使われてきましたが、中でも最も使用されたのが武器に関連するものです。

鉄の歴史というものは大砲の歴史と重なります。

15世紀には火薬を破裂させ砲弾を飛ばす大砲の構造はほぼ固まりました。

ただし、火薬の威力が強くなっていくと当時の錬鉄や鋳鉄では大砲の砲身として強度が足らず、徐々に鉄製から青銅製に代わってしまいました。

ナポレオンが活躍したころの大砲は青銅製でした。

それが再び鉄製に戻るのは1871年プロイセンがフランスを圧倒した普仏戦争の結果で、プロイセンクルップが作った鋳鋼砲により青銅砲のフランスを打ち破ったからだそうです。

 

近代以降になると金属の開発研究は急速に進みます。

この本の時代区分も最初の頃は100年、200年おきなのですが、19世紀20世紀になると5年おきの時代もあり、毎年のように新しいものが出てくるという状況となりました。

それは現在でも続いているようです。

 

 

「百人一首で読み解く平安時代」吉海直人著

競技カルタの人気も根強く、百人一首を一般教養として見る風潮もあります。

しかしそれをまともに研究対象とすることはあまりなく、著者も文学者として百人一首を対象として取り上げることに対しては周囲からいろいろと批判をされてきたそうです。

それでもこれは調査し考察するには十分に骨のあるものであると信じ、長年研究を続けてきたそうです。

そんな著者が、百人一首入門者から少し読み進んできた人向けに「ややレベルの高い入門書」として本書を書きました。

 

平安時代から鎌倉時代にかけて、多くの人々により様々な和歌を集めた秀歌撰(アンソロジー)というべきものが作られました。

百人一首もその一つであるというのが従来の感覚ですが、実際には単なる秀歌撰とは違うということを忘れるわけにはいきません。

 

そう言ってしまうには多くの疑問点があります。

1,一流歌人とは思えない作者が複数含まれている。

2,作者の疑わしい歌が複数含まれている。

3,作者の代表歌として疑わしい歌が少なからず撰ばれている

そして、それ以前の代表的な秀歌撰、公任の「三十六人撰」、俊成の「古三十六人歌合」、後鳥羽院の「時代不同歌合」と比べるとその違いが明確になります。

1,他の秀歌撰が人麿を一番に据えているのに対し、百人一首では天智天皇を据えている。

2,他の秀歌撰が左右歌合形式なのに対して、百人一首は時代順に並べている。

3,他の秀歌撰が一人三首以上であるのに対し、百人一首は一人一首である。

 

どうやら百人一首は単なる秀歌撰ではなく選者である藤原定家がその平安朝貴族社会がすでに失われてしまったということについての憧憬と貴族文化の優位性の誇示をしたというのが著者の主張です。

それこそが定家の文学営為だということです。

 

その後、百首すべてについて、その解説だけでなくどこに疑問点があるのか、定家の意図がどこにあるのかといったことが述べられていきます。

 

喜撰法師の「わが庵は都のたつみ」は分かりやすく有名な歌ですが、喜撰法師という人がどういった経歴かなどほとんど不明です。

紀貫之古今集の仮名序において、喜撰法師を独断で六歌仙に指名したことにより名が知られるようになりました。

しかし公任や俊成の秀歌撰では全く選ばれていません。

それにもかかわらず定家は自分の他の秀歌撰にも選んでいることから、定家の独自性を見ることができます。

 

光孝天皇は「君がため春の野にいでて」の歌が取られています。

この歌は必ずしも秀歌と言えるものではないのですが、なぜ定家が選んだか。

光孝天皇は傍流の親王として50代まで日陰の身の上でしたが、陽成院が急に譲位したために皇位が舞い込んできました。

その裏には藤原基経の強力な後押しがありました。

その陰にはこの歌を詠むような人柄だということが基経に気に入られたということがあったという説があります。

そういった光孝天皇の人生史を象徴するような歌だということで定家が選んだという読みです。

 

菅原道真の歌は「このたびは幣もとりあえず手向山」が選ばれています。

藤原公任は道真の歌では「東風吹かば匂い起こせよ梅の花」の方を代表歌としていました。

しかし「このたびは」の歌はその表現が道真の得意な漢詩から来た発想であり道真をよく表現するものと見たのでしょう。

なお、百人一首では作者の表記を「菅家」としてありますが、通常は「菅原朝臣」とか「菅贈太政大臣」といった官職で表すのですが、「菅家」としたのは平安末期以降の天神信仰から来たもののようです。

この歌が百人一首に撰ばれたのは、定家の紅葉好み、小倉山荘だからといったことだけでなく、道真の人生史の象徴としてもっともふさわしいと考えられたのでしょう。

 

三条右大臣(藤原実方)の「名にしおはば逢坂山のさねかづら人に知られでくるよしもがな」については古来文法上の無理解から歌の意味も間違えていた人が多かったということです。

「来る」という言葉が使われていますが、これを「女が男の家に来る」と間違えて解釈していた人が多かったということです。

契沖ですら、「来る」を理解せずに苦しい解釈をしていました。

これは古語の「来る」は現代語と異なり自己中心的な見方ではなく自分が相手方に心理的空間的に近づくことを指すということから来ているというのことです。

この点について、おそらく著者もご存じないのでしょうが、肥後方言では現在でも「来る」は相手方に行くことを示しています。

電話をして「今からそっちに来るけんね」という用法は普通に見られます。

 

 

 

「進化が同性愛を用意した」坂口菊恵著

LGBTなどと言って同性愛者などを認める動きが強まっていますが、これはあくまでも人間の多様性を許容し人権を守るということから出てきたことでしょう。

しかし、どうやら同性愛というものは広く生物の中には分布しているもののようです。

 

そういった観点から同性愛などについて考察されている本ですが、非常に範囲は広くいろいろな生物での動物行動学から、人類学、心理学といったかなり高度なものが次々と出てきます。

 

「はじめに」で書かれていることもなかなか理解しづらいもののようです。

「性的マイノリティの存在は、遺伝子が自らを効率よく拡散させるために固体の行動を操作するはず、という前提に反するように見えるパラドックスだった」

つまり、子孫繁栄のために性行動をするということが生物としての本性であるなら同性愛などというものは存在するはずはないのですが、人間だけでなく動物にも広く同性愛が存在するということが分かってくるとその理由が問題となってきます。

 

このあたりの点について、実は「異性愛が普通で正常である」という教義が非常に強まったのが近世のヨーロッパ世界であり、それの影響を強く受けている現代の科学界でもそこから抜け出せないということも作用しているようです。

 

どうやら、これまで当然と思い込んでいた「性の二分法」というものが普遍的なものではないということも明らかになってくるかもしれません。

 

同性愛、といっても動物では精神的なことは分かりませんが、同性間性行動というものは多くの動物で観察されます。

ボノボニホンザル、ゴリラ、イルカ、ゾウ、バイソン、哺乳類だけでなく、カモメ、トンボ、カニイカ、線虫に至るまで、生物を観察していると同性間での性行動が数多く見られます。

 

これは動物の行動様式を考えると当然ともいえることのようで、常に一夫一婦制で暮らす生物というのはごくわずかしかいません。

一夫多妻制、乱婚制の動物種では生殖のための性行動より同性間の性行動の方が普通です。

さらに一夫一婦制といっても繁殖期だけ一緒になり、その他の時期には同性同士のグループで過ごす種も多いのですが、その間には同性間性行動が見られます。

これはどうやら、性行動を繁殖のためではなく、コミュニケーションの一つとして行っているからのようです。

 

人類社会でも同性間性行動を禁忌としたのはごく限られた時代と場所だけであったようです。

古代ギリシャやローマでは同性愛も異性愛も普遍的でした。

皇帝ネロは3回結婚したのですが、そのうち2回は花嫁として、1回は花婿としてだったそうです。

キリスト教社会となっても同性愛をすぐに禁止したわけではなさそうです。

キリスト教聖職者としては男女間の姦淫ということが罪と見なされ、まだ同性間の方が

罪が軽いとみなされました。

しかしヨーロッパでは1250年から1300年の間に急速に同性愛への非寛容化が生じました。

この理由は明らかではないのですが、十字軍が盛んになりイスラム世界との緊張が高まり、当時は同性愛が非常に盛んだったイスラム社会に対抗してそれを禁ずる方向に走ったのかもしれません。

それが強化されてヨーロッパ社会は近代を迎えました。

日本では戦国時代までは同性愛は武士社会では普通のことだったのですが、江戸時代になり少し下火、そして明治の文明開化でヨーロッパ社会に触れることで息を止められました。

 

どうやら、同性愛というか両性愛というのが通常の状態であるいうことのようです。