爽風上々のブログ

熊本の片田舎に住むリタイア読書人がその時々の心に触れたものを書き散らしています。読んだ本の感想がメインですが(読書記録)、エネルギー問題、食品問題など、また政治経済・環境問題など興味のあるものには触れていきます。

「体育会系 日本を蝕む病」サンドラ・ヘフェリン著

「体育会系」という、書名の言葉を見るだけで著者が何を言いたいのか分かるようなきがします。

もちろん、言わずと知れたあの大学などでの「本格的」運動部や応援部などに見られるような体質のことを表しています。

 

著者のサンドラさんは日独ハーフで学校教育はドイツで受けた後日本にやってきたという経歴ですので、特に学校で見られるような「体育会系」の風習というものには非常に敏感に反応したようです。

 

こういった雰囲気はもちろん学校の運動部だけにあるものではなく、日本の社会の隅々にまではびこっているのですが、それを「体育会系」と表すことで誰もが同じようなイメージを持てると考えての命名でしょうが、上手い表現と言えるでしょう。

 

ブラック企業と言われるような、労働基準法などどこの話かと思うようなものも、このような体育会系の学校で教育されてきた若者があまり疑問も持たずに入ってしまい、そのまま体を壊すまで勤め続けるということがあるということです。

 

著者の受けたドイツの学校教育から見ると、日本の学校というものは驚くほどの状況です。

あの「ピラミッド」などの組体操では、次々と多数の死傷者が出ているにもかかわらず、いまだに運動会の山場として実施する学校が後を絶ちません。

そこには「皆で力を合わせて成し遂げる」ことで「感動を得る」といったことを求める教員が居り、怪我をするのも打ち込み方が足りないからだと言わんばかりの指導です。

それこそがまさに「体育会系」だとしています。

 

企業もブラックとまでは言われなくてもそういった体質があるところがほとんどです。

社内の公用語を英語としたという有名企業にはサンドラさんの知人も勤めていたそうですが、外国人も多い社員たちに週末は「踊りの練習」のために出社を強要していました。

年末の忘年会で余興として行うための踊りだそうで、女性は肌も露わな衣装で踊らせるということで、もしもイスラム教徒の女性社員がいたらどうするつもりなのでしょう。

こんな会社で公用語が英語などと言っても何の意味もないようです。

 

女性の働き方についても、欧米の感覚では到底理解できないようなことが多すぎて、特に女性外国人にとっては日本企業はほとんど働こうという気になれないところになっているようです。

専業主婦というもの自体、ドイツでは今ではほとんど存在しないようなのですが、日本人の多くはそれを善とする価値観を持つように仕向けられているようです。

 

日本では今の若者たちを「ゆとり世代」などと言って批判することがありますが、それを言うならドイツ人などはすべてがゆとり世代

会社員では有休は完全消化、学校の休暇は宿題など皆無で完全に勉強を忘れています。

しかしサンドラさんは母親が日本人だったために子供の頃でも家庭での学習をするという、ドイツでは珍しい習慣を身につけていました。

そこで、夏休みに何もやることがないからラテン語の勉強を家庭でしていたら休み明けの試験でトップの成績を取ったそうです。

社会全体が体育会系だと息詰まるようですが、自分一人だけがそうなら結構うまい汁も吸えるのかもしれません。

 

 

「地球科学者と巡る ジオパーク日本列島」神沼克伊著

ジオパーク世界遺産と同様にユネスコによって推進されている運動ですが、世界遺産ほどの知名度は無いようです。

しかし、日本列島というのは地学的な眼から見るとその様々な現象が集まっているかのような場所であり、2021年の時点で世界遺産認定が23であるのに対し、ジオパークは43地域も認定されています。

 

そこには日本列島という場所の特異性があり、さらにそこに住む人間たちが自然の驚異を活かしながら暮らしてきたということが関係しているのでしょう。

 

そのようなジオパークの数々について、その成り立ちの歴史から関連する地理的条件などを地球科学者の神沼さんが説明するという内容になっています。

 

本書では最初に日本列島の成り立ちを地球科学的に解説した後、火山、山岳地帯、湖水、河川の造る地形、氷河地形、海岸線、さらには自然崇拝と信仰まで章を分けて説明しています。

 

各部の説明は分かりやすく妥当なのでしょうが、写真が掲載されているのは良いとしても私の希望としては説明されている場所の地図があればもう少しイメージがつかみやすかったように感じます。

各地の相互関係などを把握するにもそれがあった方が良いのでは。

 

内容については広範囲かつ詳細なためとても概略を紹介することもできないためここでは遠慮しておきます。

 

なお、興味深かった点として、火山研究の最近の大きな進歩によってかつての記述がかなり変わってきたということが挙げられていました。

プレートテクトニクス理論が広まって後は、火山の分類としては「東日本火山帯フロント」と「西日本火山帯フロント」のみに集約されてしまったのですが、それ以前は火山の成因がよく分かっていなかったために、地域ごとにまとめて分類と言うことが行われていました。

その用語として、千島火山帯、那須火山帯、鳥海火山帯、富士火山帯、乗鞍火山帯、白山火山帯という分類用語が用いられていました。

しかし、こういった分類にはあまり意味が無いことが判り、ほとんど使われなくなってしまいました。

私の若い頃にはまだこういった用語が使われていたのを覚えています。

 

日本の東南側にはプレートの沈み込みに伴う深い海溝が並んでいます。

かつて、一部の地球物理学者の間で「海溝に核廃棄物を捨てる」というアイディアが出ていたそうです。

しかし自国の廃棄物は自国内で処理ということが原則ということで、このような考えはあまり真剣に討議されることもありませんでした。

現状ではしかし核廃棄物の処分方法が少しも進展しているとは言えません。

これは日本ばかりではなく世界各国でもほとんど同様です。

海溝だから捨てても良いとは言い切れませんが、検討と実験を行っても良いのではないかというのが著者の意見です。

 

ジオパークという論点からは少し離れるのかもしれませんが、巻末に紹介されている山岳信仰についての記述は興味深いものでした。

富士山や白山、石鎚山など山岳信仰の対象となり信仰登山が行われた場所は各地にあるのですが、修行者が登った形跡があるという山は各地にあるようです。

北アルプス剱岳は明治時代になってようやく登山ができるようになった山なのですが、そこに初めて登った人が見たのは山頂に残された奈良時代のものとみられる錫杖の頭部と短剣、そして焚火の跡だったそうです。

装備もほとんど無いも同然の時代に高山に登ったのはどのような人だったのでしょうか。

 

 

「『失われた名画』の展覧会」池上英洋著

「失われた名画」というものがあります。

歴史上これまでに描かれた絵画(彫刻、壁画も含む)は無数にありますが、実際にはそのほとんどは失われています。

しかし、中には他の文献などに紹介されていたり、その複製(模写や写真など)が残っているために実物は残っていないけれど存在は知られているというものがあります。

それらの中で、名画と呼ぶに値するものについて、その失われた経緯や特徴などを紹介しているのが本書です。

 

「失われた事情」は、すぐに想像できるように、地震や水害などの天災、火災、戦争やテロリズム、といったものの他にも「人為的な破壊」というものもあります。

これも結構多いもので、宗教的な理由により改修、切断、そして修復と言う名の破壊、加筆、塗りつぶしなどもよくあることのようです。

また、盗難というのも頻発しておりそのまま発見されていないというものも相当数に上るようです。

 

そして、「その絵が名画であるということが判っている」事情というのも様々で、すばらしい原作というものをコピーするということは古代から行われていました。

古代ギリシャの美術作品を古代ローマ人がコピーしたものは多数残っており、「ローマン・コピー」とも呼ばれているのですが、その原作の方は失われているという例が多いようです。

また、中世やルネサンス期には画家は多くの弟子を使っており、彼らが師匠の作品を模写するということもしばしば行われていたのですが、その模写の方だけが現代に残り、原作の方は失われたということもあります。

 

戦争による絵画の破壊というものは常に起きてきましたが、総力戦となった近代戦ではその規模も大きくなりました。

ナチスドイツはその指導者たちが芸術に親しんでいたことが災いし、占領地から強奪した美術品をベルリンなどに集めたのですが、ナチスドイツ崩壊の際にそれらも道連れにされました。

ベルリンのフリードリヒスハイン高射砲塔というところに収められた美術品は非常に多数あったのですが、ヒトラー自殺の直後に原因不明の火災が起き、そこに集められた数百の名画のほとんどは焼失してしまいました。

 

美術品を破壊したいという衝動に駆られる人間によるテロと言うものも古代から現代まで無数に起きています。

古くは古代ギリシャ文明の頃に小アジアのエフェソスにあったアルテミス神殿が焼け落ち、収められていたアルテミス女神像も焼けてしまいました。

その犯人としてヘラストラトスという男が捕らえられたのですが、彼の告白では「命と引き換えに後世に名を残したい」という犯罪の動機であったということです。

その望みを叶えてはならぬと考えたエフェソスの議会は彼の名を裁判記録に一切残さず、以降市民が彼の名を口にすることを禁じました。

彼は処刑されその裁判記録もすべて抹消されたのですが、しかしテオポントスという何でも記録しなければ気が済まない歴史家のせいでヘラストラトスの名は後世に残ってしまったということです。

 

石造りの彫刻でも徐々に崩れていくのは仕方のないことです。

絵画ではさらに劣化が激しいものです。

そのため、修復ということが行われますが、そのために絵画の価値が失われるということもしばしば起きます。

スペインの19世紀のガルシア・マルティネスの絵画「エッケ・ホモ」をある女性が「善意の修復」を行ったために見るも無残な状況になったということは最近のニュースにもなりました。

しかし、そこまでひどい例は珍しいとはいえ多かれ少なかれ修復により原型が変わるというのは避けられないことです。

また、修復して初期の状態に戻すとあまりにも白くなって印象が変わるということも良くあることです。

 

美術品もやがては失われていくというのは避けられないことなのでしょうが、戦争やテロといったことによる被災は御免蒙りたいものです。

 

 

「世界の『住所』の物語」ディアドラ・マスク著

本の題名から、この本は世界の「地名」を民俗学的に扱ったものかと思いましたが、ちょっと違っていたようです。

 

まず、「住所」ということから日本的な「地名」かと思ったのですが、他国の描写ではほとんどが「通り」の名前でした。

これは欧米ではほとんどの住所と言うものが「何とか通りの何番地」という表記であるため、その「通り」の名前の命名というのが大問題だからということのようです。

 

そのためか、第7章は「日本と韓国」で「通りに名前は必要か」という形で扱われています。

日本のように「ブロックに命名する」という形の住所というのは世界的には珍しいもののようです。

かつて、フランスの文芸評論家ロラン・バルトが日本の都市を評して「この都市の通りは名前を持たない」と言ったそうですが、日本を訪れる外国人の多くはこういった感想を持つそうで、日本人に道案内を依頼しても自分の思っているのとは全く違う方式で説明され分かりにくいのだとか。

日本人の道案内では目立つシンボルを挙げてそこをたどるように説明するのが普通なのですが、欧米人であれば何通りを行って何通りに曲がってという形で分かりやすいのだそうです。

日本人がこのような住所の命名をするのは、日本人の字の書き方に関係するのではと考えています。

日本の原稿用紙は四角に区切られたもので、欧米のように下線が引いてあるだけの物とは違います。

日本では字を書くのに必ずしも上から下、左から右だけでなく、逆に書いても意味が通るというのもその一因ではないかとしています。

 

その他の章は欧米を中心に世界各国、そして歴史をたどっての住所の変遷といったことを話題にしています。

住所というものがどこにでもあるものと思っていては大間違い、実に世界の70%では詳細な地図ができていないそうです。

開発途上国だけでなく、アメリカでも地方に行くと住所というものが決まっていない所もあるのだとか。

そして住所を決めようという政府の試みに対しては統制強化や徴税や労役といったことを予想して反発を買うという状態がまだ続いているそうです。

 

アメリカやヨーロッパでは政情や世論の動きにより通りの名前を変えろという世論が強まるということが頻繁に起きています。

アメリカではかつての奴隷制支持者や奴隷使用者の名前のついた通りというものが数多く残っており、それを変えるようにという黒人たちの運動が続いています。

それを入れて黒人運動の指導者の名前などに変えるとすぐにその立札が倒されたりするということで、通りの名前ひいては住所名というのが紛争の種となることもあるようです。

 

ドイツの例ではかつてあったユダヤ人の名を付けた通りがあったものが、ナチスの時代にすべて替えられ、それが東ドイツでは戦後にロシアの名前にされて、東西統一後にまた変えられるといった変遷をたどっています。

こういった動きを見ると、日本における町名変更のドタバタとはかなり異なる性格のものだということが判ります。

世界ではこれからも通りの名称変更をめぐる騒ぎが起きていくのでしょう。

 

 

「言語学バーリ・トゥード」川添愛著

「バーリ・トゥード」とはポルトガル語で「なんでもあり」を意味するそうで、ブラジルで流行していた格闘技の名前だそうです。

 

この本は言語学者の著者が、言語学についてユーモアたっぷりのエッセーを書くというもので、東大出版会の月刊冊子「UP」に連載されたものを16編合わせて単行本としたものです。

(なお、”UP”とは”アップ”ではなく、”University Press”の頭文字を取ったもので、”ユーピー”だそうです)

 

その内容は、副題となっている「AIは『絶対に押すなよ』を理解できるか」という章題からも想像できるように、芸能界やスポーツ界などの話題をふんだんに入れ込んで、その中で言語学上の命題を説明するような(説明していないようにも思える)ものとなっており、プロレスなどに詳しい人にはわかりやすい?ものとなっているのでしょうか。

(私はプロレスは全然知らないのでよく分かりません)

 

なお、「AIは『絶対に押すなよ』を理解できるか」というのはもちろん、あのダチョウ倶楽部上島竜兵氏が熱湯風呂を前にして言うセリフで、「押して欲しいのに『押すな』という」ということであるのは明白です。

そこには「言語の意図」というものがあり、人間であればそれは「押してちょうだい」であることは常日頃の言動からすぐに分かるが、果たしてAIは?ということです。

 

他にも、「恋人はサンタクロース」

あのユーミンの超有名の曲ですが、この題名は本当は「恋人”が”サンタクロース」であるということは、誤解している人が多いのではないかと言うことです。

著者も前から「恋人はサンタクロース」であると思い込んでいました。

しかし、本当は「が」であった。

それがどういうことかということを説明しています。

なお、ついてながら例示されている嘉門達夫氏のパロディソングでは「恋人”は”サンコン」とされており、嘉門氏が意識的に「が」を「は」に替えたのかどうかは不明とか。

 

著者の発表する文章には「」(カギカッコ)が多いとよく指摘されるそうです。

文章でカギカッコを使うというのは、「話し言葉」を入れる場合はもちろんですが、他にも「文字通りではない特別な意味があるぞ」とほのめかしたい場合にも使います。

それが多いと、読む人によっては「ほのめかしが多すぎてウザい」と感じるそうです。

同じようなものに、「文章末尾に三点リーダー、すなわち「…」をつける」というものもあり、本人は語尾をぼかして「文字越しに表情を出したい」という思いで使うのですが、見る側からは「はっきり言え」と怒りたくなるというものです。

他にも「(笑)」や「爆笑」といった文字を文末につけたくなるという人も居て、気になる人は気になるようです。

私も「」はよく使う方です。

気にされる人も居るのかもしれません。

だけど、止めないもんね。

 

 

「英仏百年戦争」佐藤賢一著

フランス中世などを題材とした小説を多数発表されている佐藤さんですが、もともとはヨーロッパ中世史を専攻して学位を取られたということです。

この本ではその知識をそのまま本として、いわゆる「英仏百年戦争」を描いていきます。

 

英仏の百年戦争といえば、「イギリスとフランスの間の」「百年にわたる戦争で」「黒太子エドワードやジャンヌダルクの英雄譚」といったイメージを持つのが普通でしょうが、これらはいずれも誤りか、少なくともごく一部の真実しか伝えていないもののようです。

 

まず、その当時は「イギリス」「フランス」といった国家観はほとんど成立しておらず、王家といってもそれが統一した国家を築いているとは到底言えない状況であり、さらにイングランド王と称していたノルマン朝の王たちはイングランドに暮らすことすらなく、さらにノルマンディー公を兼ねていることからフランス王に形の上だけは従属しており、自分たちはフランス人であるとしか考えていなかったはずです。

フランス王の方でも直接支配していた地域は現在のフランスの中のごく一部にしかすぎず、それぞれの地域を治めていた公たちはフランス王に従うことすらなく、独立国状態であり、自由にイングランドとの関係を結んだりといった状況でした。

 

このような状況は11世紀にノルマンディ公ギョームがイングランドに侵攻し征服してイングランド王を名乗って以来延々と続いており、特にこの時期だけを切り取って百年戦争とする意味はあまりなさそうです。

 

しかし、12世紀にアンジュー家のアンリ・デュ・プランタジュネが父母双方の領地を相続することにより、イングランドとノルマンディ、ブルターニュアキテーヌ、アンジュ―というフランスの大半を治めることとなり、情勢が一変します。

これは「アンジュ―帝国」とも言うべきものでした。

しかしこのアンリ、イギリス名ではイングランド王ヘンリー2世が死に際して息子たちに領土を分割して相続させたことにより紛争が勃発します。

長男のアンリにはイングランドブルターニュ、アンジュ―など領地の大半を、次男リシャールには妻の領地アキテーヌを、三男ジョフロワはブルターニュ公家の女相続人コンスタンスに婿入りさせますが、四男ジョンはまだ幼少ということで領地は与えられませんでした。

ジョン(欠地王子、サンテール)は非常に悔しい思いを持ち続けます。

この兄弟のケンカにフランス王も介入し、結局はフランスの領土のすべてを失い、ジョンがイングランドに逃れてイングランド王ジョンとなりました。失地王とも呼ばれています。

 

この後もイングランドはフランスの旧領の回復を目指して戦いを挑みそれが長期続くことになります。

最初の頃はイングランドの国力は弱く、フランスの各地域のそれと比べても見劣りするもので、軍事力も限られたものでした。

しかし、それがかえって幸いしたのか、騎士の伝統とは関係なしに発達した長弓を主力とすることでフランスとの差を逆転することができました。

1346年のクレシーの戦でその戦法が爆発しイングランドが大勝、フランス軍は多くの貴族も戦死するということになります。

ここで圧倒的にイングランド側が優勢となるのですが、その直後にペストの大流行が起き、イングランドに多くの領地を認めたまま休戦となってしまいます。

 

これはフランス王家にとっては存亡の危機とも言うべきものだったのですが、イングランド側でも内輪もめが相次ぎ決定的な勝利も果たすことができません。

そこに現れたのがオルレアンの救世主、ジャンヌ・ダルクでした。

ただし、実際にその力が示されたのはイングランド軍などに包囲されていたオルレアンを解放した戦のみであり、その後ランスでシャルル7世の戴冠式を行うまでは存在があるものの、その後は見るべきところも無くすぐに捕えられ宗教裁判で火刑となります。

その当時はほとんど忘れされれたのですが、この話を発掘し大々的に宣伝して利用したのがナポレオン・ボナパルトだったということです。

 

延々と続き百年戦争と称されたこの時期が終わると、フランス、イングランドそれぞれの国としての意識が高まるようになり、ようやく国民国家としてのまとまりが意識されるようになります。

イングランドではバラ戦争という内乱がさらに続きますが、それを収めて強力な統一国家として発展することになります。

英仏両国にとって、中世から近世への脱皮をするための混乱というのが百年戦争だったのでしょう。

 

 

「日本語と外国語」鈴木孝夫著

言語学者鈴木孝夫さんは今年お亡くなりになりました。

日本語と外国語との関わりなど多くの本を出版され、私もかなり以前から拝読していたものです。

 

この本は岩波新書ですが、1990年に初版発行でこれまで知らなかったというのは意外なほどです。

盲点に入ってしまっていたのでしょうか。

 

新書版の本ですが、なかなか深い内容のものをいくつか含んでいます。

 

色彩の言葉から色の認識というものを捉える。

虹が七色という観念が普通なのはどこの国か。

英語をいくら習っていてもイギリスやイギリス人を理解できているか。

漢字の知られざる働き。

 

特に「漢字」の働きについては、日本語というものの特色を考えもせずに漢字を使わなければ良くなるかのような間違い、そして日本語の価値を知らないまま外国かぶれをする風潮など、卓見かと思います。

 

「オレンジ色の車」での著者の失敗というのは象徴的な話です。

アメリカのとある都市に行った時、レンタカーを借りる手はずにしたら「10分でオレンジ色の車が参ります」と言われました。

しかしホテルで待てど暮らせど「オレンジ色の車」はやってこない。

約束の時間をかなり過ぎて、はっと気が付くともうかなり前から「茶色の車」が目の前に止まっていたということです。

それが彼らの言う「オレンジ色の車」でした。

日本人が「オレンジ色」というと、ほぼ間違いなく橙色をイメージするのですが、英語国では明るい茶色などもそう表すようです。

色彩については他の言語の他の色でも見られ、「フランスの黄色い封筒」とか「日本の赤砂糖」も他国の人からは誤解されやすいものかもしれません。

どこの言語でも、色彩を表す言葉には基本的な形容詞を使う「基本色」と専門的な色彩の形容をする「専門色」があるようです。

そしてそれがどの色かというのが言語によって差があります。

日本では白、黒、青、赤ですが、フランス語では黄色が基本色に入っています。

そのために、フランス語の黄色「jaune」はかなり広い範囲に使われるということです。

 

書物からの情報のみで英国を理解したかのように考えていると危ないという例があります。

イギリス人が絶対に食べないものが、馬肉と犬肉。

これはヨーロッパ人はすべてという意味ではなく、フランス人は馬肉を食べることがあります。

しかし、イギリス人は絶対に食べないし、その拒絶反応はイスラム教徒が豚肉に対するのと同じようなものだそうです。

 

アメリカ人もその傾向がありますが、「靴を絶対に脱がない」もその一つです。

そのため、靴を履きやすくするための「靴ベラ」というものがあまり存在しません。

外では靴を脱ぐことはないので必要ないそうです。

靴屋にも置いていないのには驚いたとか。

そしてイギリス人は人前で靴を脱ぐというのは裸になるのと同じようなもので、素足というものは恥部も同然なんだとか。

 

漢字の有用性というものを知らないまま、無くせばよいかのような議論をする人が居ます。

しかし、学問上の言葉など、普通の生活には使わないものの難しい概念を表す言葉(高級語彙と言います)を考えていくとその他に例のないほどの有用性がはっきりとします。

英語でもこういった学問でしか使わないような高級語彙というものは存在しますが、それらは大方はギリシャ語やラテン語から借りてきた言葉であり、そこから造語したものも多く、普通の生活で使う言語とはかけ離れています。

日本語であってもそれは同様なのですが、ただし日本語の場合は漢字を使うことで正確な意味は分からないまでも何となく意味の概要がつかめるという利点があります。

claustrophobia , podiatrist , heliotropism などと言う言葉は英語話者であっても知らない人は何のことか全くわかりません。

しかし、同じ意味を日本語で書いた場合、「閉所恐怖症」「足病医」「向日性」と見るともちろん正確な意味は分からないまでも一般人でも何となくイメージができます。

 

実はここに漢字の「音読みと訓読み」の効果が出ているそうです。

漢字の音読みは中国から渡来した漢字の読み方そのまま、訓読みはそれに対する日本の古来の言葉の意味ですが、それを並立させることで漢字を使った表記の意味がそのまま捉えられるようになっているのです。

 

上記のような高級語彙と、普通に使われる基本語彙との関係というのが、日本語と英語、そしてドイツ語を見ると非常に異なっています。

英語の場合は基本語彙はゲルマン語系統のものが多いのですが、高級語彙はほとんどがギリシャラテン語発祥のものを使用しています。

日本語では高級語彙は漢字を音読みするもので作られています。(中国語由来ではないようです)

ドイツ語は英語とはかなり異なり、もともとのゲルマン語由来の言葉を高級語彙でも基本語彙でも使っているようです。

そのため、英語では専門家以外では高級語彙の意味と言うものがまったく類推すらできなくなっており、勉強する以外に意味を知ることができません。

日本語では漢字と言う手段を使うことで、専門家以外でもなんとなく意味が想像できるというわけです。

 

世界には多くの言語がありますが、それぞれで音韻の構造が異なります。

日本人が外国語を習う際に苦労するのが音の多さで、日本語には母音が5個、子音も少ないのに対して外国語では微妙な差を使いこなしているようで、なかなか上手く発音できません。

そのように使う音の数(音素)というものが、日本語では23個しかないのに対し、フランス語では36、ドイツ語で39、英語で45とかなりの差があります。

さらに日本語では子音だけの使用もできませんので、さらにその差が開きます。

そのため、日本語では同音異義語というのが非常に多くなってしまいます。

貴社の記者が汽車で帰社した。などという例が知られていますが、おなじ「きしゃ」という読み方であっても違う意味の単語がたくさん存在します。

しかし「耳で聞いただけでは区別できない」のですが「漢字で書いてあるものを見れば瞬時に理解できる」のです。

これを著者は「日本語はテレビ型言語」であると表しています。一方英語などは「ラジオ型言語」であり、聞いただけで分かります。

しかし、人間では聴覚より視覚の方がはるかに優れており、それを言語にまで使用する日本語の利便性は大きいとしています。

 

そのような漢字使用の日本語という利便性を捨てて「カタカナ外来語」が溢れています。

カタカナの羅列はアルファベットをそのまま使用する場合よりさらに意味が取りにくくなっています。

そういった言葉を正確な意味も分からないまま何となくカッコよく見えるというだけで使います。

しかも、「長い単語は省略したがる」という悪癖がありますので、さらに分かりにくくなります。

マイコン、パソコン」といえばその「コン」は「コンピュータ」のコンであるということは分かりますが、その他「コン」と縮められている外来語は著者の集計によれば18語もあるそうです。

コンピュータ、コンプレックス、コントロールコンデンサー、コンバーター、コンディショナー、コンチェルト、コンクリート、コンサート等々です。

日本語でも「こん」と読む漢字は色々とあります(今、紺、近、根等々)。

しかし漢字で書けばその意味は分かります。

しかしカタカナ語で「コン」と省略してしまうとその表記も全く同じ、分別は不可能です。

このようなカタカナ語の多用や省略語の横行は正確な意味の疎通に障害となるのはもちろんのこと、日本語を学ぶ外国人にとっては非常にやっかいなもののようです。

元の英単語を知っていても、こういったカタカナ語とはほとんど対応せず、全く違った意味で使われていることもしばしば、日本語を覚える以上に障害となるようです。

 

言葉に関する様々な興味深い話でした。