爽風上々のブログ

熊本の片田舎に住むリタイア読書人がその時々の心に触れたものを書き散らしています。読んだ本の感想がメインですが(読書記録)、エネルギー問題、食品問題など、また政治経済・環境問題など興味のあるものには触れていきます。

「日本語と外国語」鈴木孝夫著

言語学者鈴木孝夫さんは今年お亡くなりになりました。

日本語と外国語との関わりなど多くの本を出版され、私もかなり以前から拝読していたものです。

 

この本は岩波新書ですが、1990年に初版発行でこれまで知らなかったというのは意外なほどです。

盲点に入ってしまっていたのでしょうか。

 

新書版の本ですが、なかなか深い内容のものをいくつか含んでいます。

 

色彩の言葉から色の認識というものを捉える。

虹が七色という観念が普通なのはどこの国か。

英語をいくら習っていてもイギリスやイギリス人を理解できているか。

漢字の知られざる働き。

 

特に「漢字」の働きについては、日本語というものの特色を考えもせずに漢字を使わなければ良くなるかのような間違い、そして日本語の価値を知らないまま外国かぶれをする風潮など、卓見かと思います。

 

「オレンジ色の車」での著者の失敗というのは象徴的な話です。

アメリカのとある都市に行った時、レンタカーを借りる手はずにしたら「10分でオレンジ色の車が参ります」と言われました。

しかしホテルで待てど暮らせど「オレンジ色の車」はやってこない。

約束の時間をかなり過ぎて、はっと気が付くともうかなり前から「茶色の車」が目の前に止まっていたということです。

それが彼らの言う「オレンジ色の車」でした。

日本人が「オレンジ色」というと、ほぼ間違いなく橙色をイメージするのですが、英語国では明るい茶色などもそう表すようです。

色彩については他の言語の他の色でも見られ、「フランスの黄色い封筒」とか「日本の赤砂糖」も他国の人からは誤解されやすいものかもしれません。

どこの言語でも、色彩を表す言葉には基本的な形容詞を使う「基本色」と専門的な色彩の形容をする「専門色」があるようです。

そしてそれがどの色かというのが言語によって差があります。

日本では白、黒、青、赤ですが、フランス語では黄色が基本色に入っています。

そのために、フランス語の黄色「jaune」はかなり広い範囲に使われるということです。

 

書物からの情報のみで英国を理解したかのように考えていると危ないという例があります。

イギリス人が絶対に食べないものが、馬肉と犬肉。

これはヨーロッパ人はすべてという意味ではなく、フランス人は馬肉を食べることがあります。

しかし、イギリス人は絶対に食べないし、その拒絶反応はイスラム教徒が豚肉に対するのと同じようなものだそうです。

 

アメリカ人もその傾向がありますが、「靴を絶対に脱がない」もその一つです。

そのため、靴を履きやすくするための「靴ベラ」というものがあまり存在しません。

外では靴を脱ぐことはないので必要ないそうです。

靴屋にも置いていないのには驚いたとか。

そしてイギリス人は人前で靴を脱ぐというのは裸になるのと同じようなもので、素足というものは恥部も同然なんだとか。

 

漢字の有用性というものを知らないまま、無くせばよいかのような議論をする人が居ます。

しかし、学問上の言葉など、普通の生活には使わないものの難しい概念を表す言葉(高級語彙と言います)を考えていくとその他に例のないほどの有用性がはっきりとします。

英語でもこういった学問でしか使わないような高級語彙というものは存在しますが、それらは大方はギリシャ語やラテン語から借りてきた言葉であり、そこから造語したものも多く、普通の生活で使う言語とはかけ離れています。

日本語であってもそれは同様なのですが、ただし日本語の場合は漢字を使うことで正確な意味は分からないまでも何となく意味の概要がつかめるという利点があります。

claustrophobia , podiatrist , heliotropism などと言う言葉は英語話者であっても知らない人は何のことか全くわかりません。

しかし、同じ意味を日本語で書いた場合、「閉所恐怖症」「足病医」「向日性」と見るともちろん正確な意味は分からないまでも一般人でも何となくイメージができます。

 

実はここに漢字の「音読みと訓読み」の効果が出ているそうです。

漢字の音読みは中国から渡来した漢字の読み方そのまま、訓読みはそれに対する日本の古来の言葉の意味ですが、それを並立させることで漢字を使った表記の意味がそのまま捉えられるようになっているのです。

 

上記のような高級語彙と、普通に使われる基本語彙との関係というのが、日本語と英語、そしてドイツ語を見ると非常に異なっています。

英語の場合は基本語彙はゲルマン語系統のものが多いのですが、高級語彙はほとんどがギリシャラテン語発祥のものを使用しています。

日本語では高級語彙は漢字を音読みするもので作られています。(中国語由来ではないようです)

ドイツ語は英語とはかなり異なり、もともとのゲルマン語由来の言葉を高級語彙でも基本語彙でも使っているようです。

そのため、英語では専門家以外では高級語彙の意味と言うものがまったく類推すらできなくなっており、勉強する以外に意味を知ることができません。

日本語では漢字と言う手段を使うことで、専門家以外でもなんとなく意味が想像できるというわけです。

 

世界には多くの言語がありますが、それぞれで音韻の構造が異なります。

日本人が外国語を習う際に苦労するのが音の多さで、日本語には母音が5個、子音も少ないのに対して外国語では微妙な差を使いこなしているようで、なかなか上手く発音できません。

そのように使う音の数(音素)というものが、日本語では23個しかないのに対し、フランス語では36、ドイツ語で39、英語で45とかなりの差があります。

さらに日本語では子音だけの使用もできませんので、さらにその差が開きます。

そのため、日本語では同音異義語というのが非常に多くなってしまいます。

貴社の記者が汽車で帰社した。などという例が知られていますが、おなじ「きしゃ」という読み方であっても違う意味の単語がたくさん存在します。

しかし「耳で聞いただけでは区別できない」のですが「漢字で書いてあるものを見れば瞬時に理解できる」のです。

これを著者は「日本語はテレビ型言語」であると表しています。一方英語などは「ラジオ型言語」であり、聞いただけで分かります。

しかし、人間では聴覚より視覚の方がはるかに優れており、それを言語にまで使用する日本語の利便性は大きいとしています。

 

そのような漢字使用の日本語という利便性を捨てて「カタカナ外来語」が溢れています。

カタカナの羅列はアルファベットをそのまま使用する場合よりさらに意味が取りにくくなっています。

そういった言葉を正確な意味も分からないまま何となくカッコよく見えるというだけで使います。

しかも、「長い単語は省略したがる」という悪癖がありますので、さらに分かりにくくなります。

マイコン、パソコン」といえばその「コン」は「コンピュータ」のコンであるということは分かりますが、その他「コン」と縮められている外来語は著者の集計によれば18語もあるそうです。

コンピュータ、コンプレックス、コントロールコンデンサー、コンバーター、コンディショナー、コンチェルト、コンクリート、コンサート等々です。

日本語でも「こん」と読む漢字は色々とあります(今、紺、近、根等々)。

しかし漢字で書けばその意味は分かります。

しかしカタカナ語で「コン」と省略してしまうとその表記も全く同じ、分別は不可能です。

このようなカタカナ語の多用や省略語の横行は正確な意味の疎通に障害となるのはもちろんのこと、日本語を学ぶ外国人にとっては非常にやっかいなもののようです。

元の英単語を知っていても、こういったカタカナ語とはほとんど対応せず、全く違った意味で使われていることもしばしば、日本語を覚える以上に障害となるようです。

 

言葉に関する様々な興味深い話でした。