爽風上々のブログ

熊本の片田舎に住むリタイア読書人がその時々の心に触れたものを書き散らしています。読んだ本の感想がメインですが(読書記録)、エネルギー問題、食品問題など、また政治経済・環境問題など興味のあるものには触れていきます。

脱炭素化を無視し、さらにそれを利用して世界制覇を目論む中国を止められるのか。

杉山大志さんという方の記事を紹介しましたが、それによれば中国は石炭の大増産を計画、ということは石炭火力発電を増強するということでしょう。

さらに新規原発の建設を加速させるということです。

sohujojo.hatenablog.com

 

 

これは欧米日が目指す(と言っている)脱炭素化の動きを完全に無視しているわけですが、それだけでは済まず安価なエネルギーを得てそれでさらに自国の製造業の国際競争力を高め、世界の国々を圧倒しようという戦略のようです。

 

脱炭素化と称して進められている、化石燃料からの脱却は再生エネルギー発電や自動車の電気化などが主たる方策ですが、これらは現行の化石燃料使用の場合に比べて圧倒的にコスト高となります。

もちろん、コスト競争力などはほとんどありません。

 

そのため、脱炭素化を受け入れない国々には制裁を加えるといった手段で強制しない限りは進めることはできません。

発展途上国はこれを受け入れがたいとかなり抵抗していたのですが、欧米日の圧力で押し付けようとしています。

 

しかし、中国に対してこのような圧力が効果があるのかどうか。

 

世界の製造工場としてだけでなく、多くの先端産業すら取り込んだ中国を、経済制裁と称して取引停止にしたところで困るのは世界の方です。

ロシアや第三世界だけでなく、多くの国が中国になびきかえって欧米の方が疎外されることになりかねません。

 

さらに中国の目論む石炭火力発電や原発の増強は、中国の電力コストをさらに引き下げて工業産品の価格を低下させ、競争力を強めることになります。

太陽光発電パネルのシェアを中国が上げたのは、製造に大量に必要な電力を安価な石炭火力発電で生み出したためだということですが、それと同様の事例が今後も出続けることになるでしょう。

 

しかも、脱炭素化技術に不可欠なレアメタルの生産も多くのものは中国が抑えており、脱炭素化を進めるということが中国の覇権をさらに強化するということにもなり兼ねません。

 

ロシアの勢力をくじくために仕組まれたようなウクライナ紛争ですが、それを中国は利用し勢力拡大に有利に使っているようにも見えます。

これにさらに脱炭素化という欧米の大失策とも言える施策を完璧に利用し欧米を圧倒することになるのか。

 

米共和党、中国のエネルギー政策、杉山大志さんの解説

キャノングローバル戦略研究所主幹の杉山大志さんが、夕刊フジに書いていた記事です。

news.yahoo.co.jp

トランプ政権で国務長官を務め、トランプ再選となれば再び政権中枢に座るであろうポンペオの発言で、アメリカは「エネルギー・ドミナンス(優勢)」を必要とすると主張したそうです。

バイデン政権はヨーロッパ寄りの脱炭素化政策で、アメリカの優勢な石油・石炭・天然ガス原子力を敵視してしまった。

それではとても中国に対抗はできないということで、政権奪取の暁にはそちらに動きを戻すということでしょう。

 

中国はウクライナ紛争を受けてエネルギー分野で何をしているのか。

石炭生産能力をさらに増強し、原子力発電所も新規建設を大幅に増やすようです。

これでエネルギーコストを引き下げ、欧米との競争力を強めようとしています。

 

このまま脱炭素などと言うことを進めていくとさらに競争力を弱め中国の一人勝ちを許すかもしれません。

 

現状の国際情勢としては確かにこの通りなのでしょうが、やはりその方向は間違っていると言わざるを得ません。

このような国際競争の激化は究極のエネルギー不足の状況に至る時を早めるだけでしょう。

 

「宗教改革の真実」永田諒一著

キリスト教宗教改革は1517年にドイツの修道士マルティン・ルターが、当時蔓延していたローマ・カトリック教会の贖宥状(免罪符)販売を糾弾する「論題」という書状をヴィッテンベルクの教会の扉に張り出したことで始まったと言われています。

 

そこから多くの争いが勃発し、大きな戦争も起こしていくのですが、それを社会史として見ていくと色々と違う面も見えてくるそうです。

 

まず、ルターが論題を教会の扉に張ったという事実はなかったようです。

実際にはマインツ大司教に「書状を送った」だけのようです。

しかしその後ルターの弟子として改革運動を戦ったメランヒトンという人物がより劇的に表現しようとして書いたのがその始まりでした。

 

宗教改革派たちはローマカトリックを攻撃する文書を多数印刷して配り、それで信者を多く獲得したと言われています。

しかしそもそも当時、そのような文書を読める人がどれほどいたのか。

庶民ばかりでなく、貴族や有力市民であっても文字を読めない人が多数でした。

それでも改革派は当時発明されて広がっていった活版印刷を使って多くのパンフレットを作成しました。

そのためか、分かりやすく挿絵が多いものも作られ、ローマ教皇を悪魔や動物などに描いた絵を入れて攻撃したそうです。

そういったパンフレットも一人一人が持つのではなく、文字の読める人の周囲に人々が集まり彼が読むのを皆で聞くという光景が見られたのでしょう。

 

改革派の増えたドイツでは都市ごとにカトリックか改革派かを選ぶという方策も取られました。

しかし一部の都市ではどちらとも決め兼ね、両方を認めるというところもありました。

アウクスブルクなどの自由都市ではそれ以前から両派が並立していたためにその後もそれを守ることとなりました。

そうなると時折起きたのが宗派が異なる男女の結婚でした。

結婚式というのは当時は宗教の教義に則って行われ、自分の宗派を再確認するという重要な儀式と位置付けられていました。

それがどちらの教会で結婚式を行なうか、かなり面倒な事態になったようです。

中には一方には嘘をついて結婚後はこちらの教義に入ると言って式だけは挙げるが結局は元通りといったこともあり、もめごととなりました。

 

現在の暦はグレゴリウス暦といって1582年にローマ法王グレゴリウス13世の名で発布したのですが、これは従来のユリウス暦の欠点を改めた優れたものでした。

しかしローマカトリックが発布したということで宗教改革派たちが反発し、その導入を認めず争ったそうです。

当時すでにユリウス暦では1か月近くの誤差が生じており不都合も多かったのですが、カトリック側が出したということだけで騒動となりました。

それに切り替えると大切な祝祭日が1年消えてしまうということも反発の要因だったようです。

 

ヨーロッパを近代に導いた一つの動きとも言える宗教改革ですが、民衆の視点から見れば何やら色々と興味深いものがあるようです。

 

 

台風14号、九州中南部は最悪の状況は過ぎたが今後も注意。

現在(9月19日午前8時30分)、台風14号は福岡県北部から山口県にかけての位置にあり、九州中南部は少し離れたようです。

しかしだいぶ弱まったとはいえ、中心気圧970hPaとかなり強力です。

 

熊本では今日未明が一番接近し、かなりの強風でしたが現在は少し弱まったのでしょうか、とはいえかなり強い風が吹いておりまだまだ油断はできません。

 

しかし幸いなことにこの地域では停電も発生せず、まあほぼ無事に終わりそうです。

球磨川中流域もギリギリまで増水したようですが、これまでのところ氾濫ということはなかったようです。

今回は気象庁などもかなり危機感があったようで、繰り返し避難の勧めをされていたためか、普段はこちらでも市街地では避難する人は少ないのに今回はかなり避難者が多かったようです。

 

御心配頂いた方もいらっしゃったようですが、こちらは何とか無事でした。

しかし、かえってこの後中国地方や近畿地方の方で災害発生ということにならないか心配です。

くれぐれも周囲に気を配り不安があれば早めの避難ということを心がけたいものです。

「粋を食す 江戸の蕎麦文化」花房孝典著

食べ物で江戸(東京)の名物とされてきたものには鮨、天婦羅、うなぎ蒲焼、そして蕎麦が挙げられます。

しかし先の3つはどれも江戸湾で上がった魚などが食材となっており、だからこそ「江戸前」と言われていました。

それに対し蕎麦は江戸時代であっても江戸周辺で収穫されていたわけではありません。

蕎麦の生産地は信州をはじめ地方ですがそこから江戸まで運ばれました。

それでも江戸の食べ物としては蕎麦は一番重要な位置を占めているとも言えます。

蕎麦は「粋」とも密接に関わっており、蕎麦粉自体は地方の生産地の方が良いものがあるとしてもその作り方、食べ方まですべてが「江戸の粋」を体現していると考えられ、田舎蕎麦とは違う江戸の蕎麦というイメージが形作られてきました。

ただし、そこには多くの勘違い、伝聞の間違い、聞きかじりの生半可な知識が集まり色々な誤説も入り込んでいるようです。

 

信州をはじめとする蕎麦の生産地では米は年貢として納めてしまうので蕎麦は自分たちが食べる重要な食糧でした。

しかし江戸には年貢米の多くが集まってきたため、庶民でも日常的に白米を食べることができました。

そのため、蕎麦はあくまでも小腹の空いた時の間食という扱いであり、蕎麦屋の一食分もわずかな盛しかありませんでした。

蕎麦で腹いっぱいにしようという行為も無粋と見られました。

そのような量が多くひと盛で満腹するような蕎麦は「馬方蕎麦」と呼んで軽蔑したものです。

 

今でも気の利いた蕎麦屋では客に茶は出さないそうです。

蕎麦は香が命ですが、同様に茶も香りですのでそれがぶつかってしまうと考えられたのでしょう。

同様に蕎麦は米で作られた酒の味と香りも奪ってしまうと考えられていました。

蕎麦屋では酒を飲むというのが当然のように思われていますが、これはあくまでも「蕎麦屋で酒を飲む」のであって「蕎麦で酒を飲む」のではないということです。

それでも昔の蕎麦屋は他の飲食店以上に酒の品質は吟味しており、うまい酒を飲みたければ蕎麦屋に行くというのも良くあることでした。

そのため、蕎麦屋では蕎麦以外に酒のつまみとなるような料理が出されるようになります。

そして蕎麦は飲んだ後にさっと一杯食べて帰ってくるということになりました。

 

このような蕎麦文化が出来上がってきたのは、どうしても「蕎麦きり」というものの誕生が必要でした。

蕎麦自体はすでに奈良時代から救荒作物として栽培され食べられていましたが、その食べ方は雑炊や粥、そして蕎麦がきのようなものでした。

それを伸ばして麺のように切って食べることで売りやすく食べやすいということになりました。

それがいつ始まったか、やはり広く広がったのは江戸時代に入ってからのようです。

ただし、そのような食べ方には先行して「麦切り」というものがありました。

小麦粉を練って伸ばして切って麺にする、すなわちウドンなどのようなものです。

そこから蕎麦もそのように使われるようになりました。

 

現在でも蕎麦のつなぎとして小麦粉が使われており、あたかもそれは安い小麦粉で水増しかのように言われることもあります。

そのため蕎麦粉100%を謳うのも高級感を出そうとしているかのようです。

しかし江戸時代以前では実は小麦粉の方が高級品、蕎麦粉は安いものでした。

そのため、「麦切り」の嵩増しで蕎麦粉を混ぜたというのが本当のところのようです。

「二八蕎麦」というものがあり、これは蕎麦粉と小麦粉の比率だと言われることもありますが、(実際には売値が十六文というところから来たようです)、その比率も「小麦粉が2で蕎麦粉が8」と考えるのが現代では普通ですが、逆に「蕎麦粉が2で小麦粉が8」とする記録も残っているようです。

 

他にも蕎麦にまつわる落語、小噺、川柳なども取り上げており、江戸の頃の蕎麦というもの全体を見ることができるようになっています。

暑い時期にはありがたいのがざるそばですが、まああまり気取らずに食べたいものです。

 

 

「内田樹の研究室」より「国葬、旧統一教会」

少し前の記事になりますが、内田樹さんのブログ「研究室」で「国葬、旧統一教会」について某ネットメディアからのインタビューされた内容を書かれていました。

 

blog.tatsuru.com

安倍を強く支持していた連中にとって、彼が韓国系の統一教会と深く癒着していたということは大きな衝撃かもしれません。

ただし、そういった人々を「ネトウヨ」などと呼ぶのには内田さんは反発しており、とても右翼などと呼べるようなものではないということです。

沖縄の基地で反対運動をしている「左翼」も左翼などと呼べるものではなく、駐留外国軍に反対しているのだから彼らの方が本当の右翼なのかもしれないということです。

 

統一教会も日本での組織は維持できない可能性もあるとか。

ただし、もともと日本の組織は「金集めのための機関」にすぎず、日本組織がなくなったとしても統一教会にとってはそれほど影響がないとも。

 

これまで検察や公安、国税庁を押さえ込んでいたのは安倍だったので、それが無くなれば本腰を入れた調査が始まる可能性もあり、とても持たないということでしょう。

 

さて、内田さんの予測、どこまで当たるでしょうか。

「不良少年の映画史」筒井康隆著

筒井康隆さんはSF作家として名を成しましたが、演劇が非常に好きであり自らも映画俳優を目指して映画会社の募集に応じた経験もありました。

そのような映画好きというものは非常に幼い頃から築かれたものであり、幼児の頃から家族に連れられて見に行った経験から始まりますが、やがて第二次大戦敗戦後の著者中学生の時代には一人でも見に行きたいという欲望を抑えきれないようになります。

 

当時は入場料金も安かったとはいえ、子どもの小遣いで賄えるほどのはずもなく、親の金を持ち出し、さらには御父上の蔵書を売り払い、御母上の着物を売って金を作るという行為に出ます。

そのような所業を総括し「不良少年」として本の題名ともしたわけです。

なお、ご両親も薄々は感付いていたのでしょうが、最後まで表立った問題とはすることなく済んだのは幸いだったのでしょう。

 

そのようにして見たのは当時の映画の中でも特に喜劇でした。

ただし、戦後の混乱期でまともなフィルムが無いものも堂々と掛けられていた場合もあり、画質が悪い程度は良い方で途中が抜けているといったものもあったようです。

 

そういった映画を、著者が見た順番ではなく制作年度の順番に並べています。

これも一つの見識かもしれません。

映画製造のピークは戦前の昭和12年あたりにあったようで、その頃には数もさることながら質も高いものが数多く作られました。

それは輸入映画でも同じで欧米の映画がいくつも輸入され毎週のようにロードショーを行いました。

そういった映画のフィルムが戦争をくぐり抜けて戦後の映画館の映写幕を飾ったことになります。

 

それにしても気に入った映画は何度でも見たようですが、細部まで詳しく覚えていることにはびっくりします。

もちろん、「キネ旬」すなわちキネマ旬報の紹介文も参考にしているのでしょうが、喜劇であればギャグの出来具合に至るまで詳しく記述されています。

それを見た当時は中学生程度の少年であったことを思えば驚きも増します。

やはりよほどの映画愛というものがあったのでしょう。

 

なお、キネマ旬報の映画紹介のコーナーでは批評家たちの批評文も掲載されていたようですが、その書き方の辛辣さには驚きます。

今もしそのような新作映画の講評を書いてもここまでボロクソに批判したらまずいのではと思うような文章が並んでいます。

まあかなり映画も粗製乱造の様子だったので、批判するしかなかったのかもしれませんが。

 

なお、描かれている映画のほとんどは見たこともないものですが、黄金狂時代、キング・コング歴史は夜作られる、といったものは洋画では有名なものでしょう。

邦画ではエノケンエンタツアチャコなどの作品はどんなものかの想像はできます。

 

しかし映画を見た際の映画館の混雑ぶりの描写というものは、今では想像もできないものでしょう。

それだけ大衆の娯楽として大きな存在だったということです。