英文学者ですがエッセイなども多く書かれていた外山さんの「ユーモア」について語られたエッセイです。
最初には「ユーモア」という言葉についてというところから入っています。
英語では「ヒューマー」に近い発音です。
humour という綴りですので、そう発音するのには不思議はないようです。
日本語でこれを「ユーモア」と読んでいるのは、してみるとフランス語あたりの「H」を発音しない言葉から入ったのではないかと考える人も居たようです。
ところが、どうやら英語でも語頭の「H」を発音しない時代があったようで、その頃は「ユーマー」に近い音だったようで、それをそのまま取り入れた日本人が「ユーモア」と読んだということだそうです。
それは意外に新しい時代のことで、オックスフォード・イングリッシュ・ディクショナリー(OED)によれば「humourの始めのhを発音するようになったのは最近のことだ」ということで、20世紀初頭のようです。
そして、それを補強するのが「ユーモアはイギリス風である」という事実です。
イギリスの歴史家トレヴェリアンによれば、イギリスは14世紀頃から「アイランド・フォーム」という独自の文化を持つようになった。
そしてユーモアというものもその閉鎖的な文化で熟成した言葉から生まれていったということです。
フランスなど大陸的文化のところではそのような言葉の成熟が遅れたためにユーモアの発生も遅れたとしていますが、これは英文学者の外山さんならではの考えかもしれません。
「ユーモアさまざま」と題した第2部ではイギリスやアメリカ、そして日本でのユーモアの実例が紹介されています。
日本でもユーモア感覚たっぷりの文学が数多く発表されました。
ただし、そこには裏側におびただしい量の関連知識が隠れているために、それが通じない外国人や、その関連が意識されなくなった後世にはもはやそのユーモア感が理解できないということになるようです。
川柳の柳多留に、”厳寒に 酒あたためて 紅葉鍋” という句があります。
これを最近の某文学者が解説するに、「紅葉鍋」のことばかり説明していますが、これがシカの肉の鍋であるということばかり解説されてもちっとも面白さが伝わらない。
この句は、白居易の漢詩「林間に酒を暖めて紅葉を焼く」をもとにしたパロディであるということが忘れられてしまえば、その面白さも半減します。
「ユーモアは国境を越えない」「ユーモアは時代の境界を越えない」と言う人も居るようですが、それがこの「教養の境界」によるものだそうです。
ユーモアを楽しむということはかなり高等なことのようです。