爽風上々のブログ

熊本の片田舎に住むリタイア読書人がその時々の心に触れたものを書き散らしています。読んだ本の感想がメインですが(読書記録)、エネルギー問題、食品問題など、また政治経済・環境問題など興味のあるものには触れていきます。

エネルギー産生比(EPR)どころの話ではない、電動重機の効率

風力発電太陽光発電は環境中に設置する必要があるために、土木工事の必要性も大きいものですが、どうやらそのエネルギー投入についてきちんとした考慮が足りないのではないかという疑問を抱きました。

 

それが、今広く流通している「EPR」(エネルギー産生比)の異常な高さにもつながり、実際はとてもエネルギーを生み出すとも言えないものの将来性が高いかのような幻想を抱かせているという推測ができるということを論じてきました。

sohujojo.hatenablog.com

しかし、これはそのような机上の計算だけに留まる話ではなく、その技術の存立自体にも響くような大変な弱点になるのではと思い当たりました。

 

風力発電も、最近では「海上」やら「沿岸」といったおかしな方向に行こうとしていますが、これまではほとんどが陸上、それも山の稜線といったところに設置される例が多いようです。

太陽光発電も平地では適地が少ないためか、そのような山合に広く展開されているという話も聞きます。

 

こういった場所に設置するためには、その場の整地や取り付け道路の設置等、かなり大量の土木工事や建設工事が必要でしょう。

そこには多数のトラクターやパワーシャベル、輸送用大型トラックなど、重機や大型自動車が使われているはずです。

これらの機械の投入エネルギーが正当に評価されていないのがEPRの過小評価の原因ではないかという疑問は前回出していますが、それ以上に問題となるのが、「電動」になった場合どうなるかです。

 

現状では間違いなくほぼすべてが重油やガソリンを燃料として動かされているはずです。

これらの機械がもしもすべて「電動」になったらどうなるのか。

 

その効率は内燃機関と比較してかなり低下するのは間違いないでしょう。

すると、同じ工程の作業をするのに投入すべきエネルギーがかなり増加してしまうことになります。

そもそも、そこで建設している風力発電装置などのEPRを計算するための、「入力エネルギー」には建設に要するエネルギーも加算されていなければなりません。

 

その建設エネルギーが機械の低効率ゆえに増加することになれば、建設している発電装置の存立も疑われることになります。

 

そして何より、そんな「電動重機」が本当に可能なのか。

蓄電池の容量も普通の乗用車とは比べ物にならないほど大きなものが必要でしょう。

そんなものを載せた車体の重量はどれほどになるのか。

それほど稼働範囲が広くないとして、蓄電池を使わずコードで電力供給するというタイプのものも考慮されるかもしれません。

しかし、それでもモーターの性能がエンジンと比べてどうか、電源供給の可能性、さらに電力を使用するということでの途中でのエネルギー損失など、問題点は山積みのようです。

 

こういう場面では「水素」を使うというアイディアもありそうです。

しかし、これも水素を作り出すための装置での損失、さらに水素を作り出す元となるエネルギーまで考えれば、トータルでの効率は非常に低いものになるでしょう。

 

結局、現在の風力発電太陽光発電は、建設のための化石燃料駆動の重機があってこそ成り立っている(かどうかも怪しいが)ものだということでしょう。

「脱炭素社会」でも、こういったところだけは油を使う?

そうでもしなければほとんど成り立たないということでしょう。

 

 ただし、化石燃料を使わないという理由があの本当かどうかも分からない二酸化炭素温暖化ということになっていますので、どうしてもやむを得ない(?)重機の燃料と言う理屈を付ければ使えるということにしてしまうのであれば、無理やりでも成立させることはできるわけです。

そうなれば、非常に奇妙な状態が現れることになります。

脱炭素といいながら、それを建設する現場では重油などを使い放題のトラクターが走り回る。

それを見ても何の疑問を感じないような感性の人間だけが幅を利かすのでしょう。

 

熊本城復旧、公開間近

5年前の熊本地震で大きな被害を受けた熊本城の天守閣の復旧工事が完成し、26日の一般公開開始を前にして報道陣に公開されたそうです。

熊本城天守閣公開へ準備万端 常設展示で修復作業を解説 (msn.com)

 

地震直後から熊本城の被害状況は逐次報道されていましたが、石垣は相当崩れたものの天守は再建だったこともあり、なんとか形は保っていました。

 

復旧工事も続けられていましたが、徐々に出来上がってくる様子は希望を持たせるものだったのかもしれません。

 

熊本の人々にとっては、あのお城の姿というものは象徴以上のものなのかもしれません。

よその出身で熊本市在住でもない私にとってはそれほどでもないのですが、やはり何度も行ったことはあり、思い出もたくさんある場所ですので、公開が始まればまた見に行きたいとは思っています。

石垣など全部の復旧にはまだ何十年もかかるようです。

せめて工事が終わるまでは次の地震が来ないことを祈ります。

通っていた小学校など、初公開

熊本市のFM局で、市内の小・中・高校の校歌を全校放送するという企画があったそうです。

kumanichi.comそれを取り上げた新聞記事で「熊本市の学校校歌は”阿蘇”がぞろぞろ出てくる」という記述があるのを見て、私自身が通った学校はどうだったかと思い返してしまいました。

 

幾度か触れたかもしれませんが、父親が転勤が多い職場だったため、小学校は何度も転校し、ようやく小学6年になって落ち着きました。

低学年で通った学校はもう記憶もあいまいになっていますが、この機会にそれらの学校を公表してみようかと思います。

(なお、いろいろと差し障りがありそうなので中学以降はまだ当分秘密にしておきます)

 

幼稚園

名古屋市昭和区にある「みちる幼稚園」というところです。

みちる幼稚園|学校法人大谷学園|名古屋市昭和区

現在のホームページを見ると(まだ存続しているようです)なかなか立派な建物で園児の数もかなり多いようです。

昔のアルバムに幼稚園の写真が何枚か残っていますが、その頃は小さな建物でした。

千種区の会社の社宅に住んでいた頃で、周りの子どもたちと一緒に幼稚園のバスに乗って通ったような気がします。

そこにも「園歌」なるものがあったのかもしれませんが、まったく記憶にありません。

卒園時の記念写真も残っていますが、同じような顔に見える幼児たちですが、皆すべて66歳くらいになっているのでしょう。(生き残っていればですが)

 

小学校(1校目)

名古屋市立千種小学校

千種小学校

これもホームページを見ると、明治5年創設というすごい学校だったようです。

私が入学したのは昭和36年だと思いますが、その前年には開校88周年記念行事が行われていたようです。

もちろん、今は鉄筋の3階建てになっていますが、当時は木造でした。

家からの距離はせいぜい400m、大久手の交差点を越えるとすぐといったところです。

今はすごい交通量の幹線道路を越えて行くのでしょうが、当時はそれほど広い道と言ったイメージはありません。

 まだそれほど自動車も多くは無かったのでしょう。

入学式の時の記念写真が残っていますが、担任の先生はかなり年配の女性ですがまったく記憶がありません。

木造の校舎の前にちらほらと咲き始めた桜、そこに子どもたちと親(ほとんど母親)が並んで写真に納まっています。

お母さんたちもほとんどが和服というのも時代を感じさせます。

なお、上記の学校ホームページには校歌の楽譜と歌詞も掲載されています。

これもまったく記憶にありません。

しかし、普通の校歌では山だの川だのが出てくるのですが、それが無いのも名古屋市内という特色でしょうか。

この小学校には1年生の1年間いただけで転校となってしまいました。

 

小学校(2校目)

福岡市立西高宮小学校

www.fuku-c.ed.jpこの学校は出身有名人が居るということで有名です。

ここには小学2年から4年までの3年間通いました。

当時は町はずれの山が近い所といったイメージでしたが、今では高級住宅街になっています。

西鉄高宮駅近くに社宅があり、そこから歩いて2,30分かかったように思いますが、今地図を見てみると1kmちょっと。

子どもの足では時間もかかったのでしょうが、すぐ近くのようです。

通学で思い出深いのが、その頃に目覚めた読書の楽しみが強く、毎日のように図書室で本を借りては帰ったのですが、それを読む時間がもったいなく、下校途中の道すがら歩きながら本を読んでいたことです。

家に帰ると近所の子どもたちと野球をしたり空き地で遊んだりで忙しく、その時間を取るために本を読むのは歩きながらというものでした。

 

西高宮小学校の校歌はホームページには載せられておらず、ちょっと調べても分かりません。

まあ記憶もありませんので、歌うこともできないでしょう。

 

小学校(3校目)

東京都三鷹市立第7小学校

三鷹中央学園 第七小学校/ホーム

父の仕事も最後近くなり、希望の勤務地ということで東京になり社宅も三鷹駅のすぐ近くになりました。

人口が増えている地域で学校も多く、家から一番近いのは第3小学校だったようですが、校区の関係かその横を過ぎてちょっと離れた第7小まで行きました。

小学5年になる時に転校したのですが、親はそれと同時に自宅の建設準備に入り、建設会社の選択などに取り掛かり、結局その翌年の7月には完成、転居となったのでこの小学校には1年と3か月ほど行っただけでした。

しかし、年齢も高くなっていたためか、学校の記憶も多く残っています。

校歌もはっきりと覚えており、ホームページには簡単な演奏例も掲載されているのですが、しっかりと歌うことができます。

なお、歌詞の中にはこの辺の学校では必ずある「富士」がやはり歌われています。

 

小学校(4校目)

茅ヶ崎市茅ヶ崎小学校

 

茅ヶ崎小学校|茅ヶ崎市立小学校・中学校ホームページ

6年生の夏休み明けに転入し、卒業までの半年ちょっとだけ在籍しました。

ここで知り合った友人たちとは今でも交流がありますし、いろいろと記憶も多く残っています。

ただし、ここの校歌というのはさすがに在籍期間がわずかだけだったためかあまり印象がありません。

ホームページには児童が歌うファイルまで入っているのですが、あまり覚えがありません。

歌詞の中にはやはり「富士」は不可欠のようですが、そのほか「松の花咲く砂の道」というのもいかにも茅ヶ崎らしいものです。

あの冬場の砂嵐には驚きました。

 

以上、「校歌」というものから、通った小学校などについて振り返ってみました。

さすがにもう覚えていないところもあるのは仕方ないことでしょうか。

なお、中高大の学校の校歌ははっきりと覚えていますが、それは内緒。

ワクチン予約はかなり大変

東京都八王子市で全国に先駆けて新型コロナウイルスのワクチン接種の予約が始まったということで、ニュースなどで報道されています。

www.yomiuri.co.jp

 

対象となる高齢者が16万人ほどのところに、今回のワクチン数が1000ちょっとということでは、あっという間の締め切りというのも仕方ないことでしょう。

 

今後もワクチン入荷は続くので大丈夫と言われているようですが、本当かどうか。

まあ、ヨーロッパではかなり接種が進んでいるようですので、こちらへも回ってくる数が増えればそうなるのでしょう。

 

それにしても、ワクチン恐怖症とも言えるような日本人が本当に進んで接種を希望するのかどうか、危ういと思っていましたが、それを感じさせないような雰囲気で、コロナウイルスの危険性を強調した報道が続いたことで、ワクチンへの不安などは完全に吹き飛ばすような心理状態にさせてしまったということでしょうか。

 

アナフィラキシーの発現率が欧米と比べても高いのではと言われていますが、これはここまでの接種は医療関係者に限られているため、その検出率も高いからでしょう。

さいわい、重症化する人も居なかったようですから、まあ通常のワクチン以下の危険性かもしれません。

ただし、こういった薬剤副反応は個人差が大きいので必ず重症化する人も幾分かは出てくるはずです。

その時、どういった報道がされるかによってその後の社会の雰囲気も変わるかもしれません。

 

高齢者の枠に入ってしまった私ですが、いつになったら接種できるのか、まったく見当もつきません。

無事に終われば孫の顔を見に都会方面へ出かけようと思っているのですが、いつになることやら。

 

「呉漢 下」宮城谷昌光著

中国漢王朝の時代、王莽に簒奪された皇位を取り戻した劉秀(後漢光武帝)に従って全国を統一した呉漢の物語、その下巻です。

 

上巻の時にも書きましたが、「呉漢」という人名についてまったく聞いたことも無く、いつの時代の人かも分からないまま読み始め、劉秀という名前が出て初めて後漢王朝建設時の話と分かってきました。

 

下巻では劉秀の勢力が他より抜きんでてくるものの、まだまだ他の勢力は強く、厳しい戦いをしていく様子が描かれています。

 

読んでいくうちに、呉漢は劉秀の信頼も厚く、王朝設立のすぐ後には大司馬という軍事部門最高の地位に就き、その後も長く勤めていたということが分かってきます。

まさに劉秀の皇位を確立するうえでの功労者と言える存在だったのでしょう。

 

とは言え、物語のほとんどはそういった戦いの描写の連続であり、まあそれ以上のものではないとも言えます。

 

戦いの相手も統率の取れていない賊徒と呼ばれるものも居ますが、各地に立った独自の王朝の勢力もあり、あとの時代の観点から見れば「反乱軍」かもしれませんが、それは勝ったものから見た見方に過ぎず、そちらが勝っていれば劉秀や呉漢の勢力が「賊徒」とされたのかもしれません。

 

そのような状況ですが、宮城谷さんの筆は対する勢力の人々の中にも高潔な人材、有能な人材もあることにも及び、彼らが歴史に埋没していったのも少しだけ運が足りなかったということに過ぎないとも言っているようです。

今の世というものも、数百年、数千年先にもしも文化が残っているならば、振り返られることもあるかもしれませんが、名を遺すということは大切なことなのでしょう。

 

呉漢(下) (中公文庫)

呉漢(下) (中公文庫)

 

 

夢の話「茅ヶ崎駅に急ぐ」

夢の前半はもう印象が薄く忘れてしまいましたが、なぜか茅ヶ崎駅に急がなければならなくなっています。

 

家から駅までは歩いて10分。

しかし電車の時間までもう十数分しかありません。

気ばかり焦るのですが、ようやくぎりぎりになって家を出ます。

 

家から駅までの道は、昔のままの光景です。

今ではすごい量の自転車や車もほとんど通りません。

駅が見えますが、南口の改札には駅員さんが立って切符を切っています。

電車が入ってくるのが見えるのですが、改札口からは走ってもちょっと間に合いそうもありません。

 

夢と現実:

茅ヶ崎駅は高校の3年、予備校1年、大学4年の計8年間通学で利用しました。

もう50年以上も前の話になります。

そのころは今とは違い南口、北口のそれぞれに改札口があり、そこから跨線橋を越えてホームに渡りました。

改札口にはまだ自動改札機などはなく、駅員さんが目を光らせていました。

これが駅ビルと橋上駅に建て替えられたのが1985年、それ以前の姿を知っている人も中年以上だけになってしまったのでしょう。

 

実家から駅まで歩いて10分というのも昔の話です。

今は駅前広場も広がり信号ができたりしたため、少し余計に時間がかかるようになってしまいました。

ただし、改札を入るまでちょうど10分でも跨線橋を渡って電車に乗るまではプラス2分くらいかかりますので、それだけの余裕をもって行かなければいけません。

とはいえ、電車は当時でも朝夕は4分間隔くらいでどんどんと来ますから、まあそれほど気にする必要はありませんでした。

 

茅ヶ崎に転居したのは小学校6年の時で、1966年でしょうか。

その頃と比べると、茅ヶ崎、辻堂、藤沢といった湘南地方の駅周辺は驚くほど変化しました。

そして駅だけでなく町の雰囲気も大きく変わってしまいました。

もう親も亡くなってしまいあまり訪れることもなくなってしまいましたが、かつての町の様子も記憶の中だけになってしまいました。

「内田樹の研究室」より「日本のイデオクラシ―」

「イデオクラシ―」とは、idiot(ばか、間抜け)とdemocracy (民主制)とからの造語で、衆愚政治をさらに激化させたものを指します。

 

内田樹さんの「研究室」では、日本の政治はすでに衆愚政治などと言う程度ではなく「イデオクラシ―」と化しているとしています。

blog.tatsuru.com

近頃の政治家や官僚の不祥事言い訳を聞いていると、「記憶がない」という答弁だらけです。

 国民に疑念を抱かせるような行為について「あった」と言えば責任を取らなければならない。「なかった」と言えば、後から「あった」という事実が判明すると虚偽答弁になる。そこで、窮余の一策として彼らが採択したのが「国民に疑念を抱かせるような行為があったかなかったかについての記憶がない」という「事実の無知」による弁疏であった。事実の無知については、これを処罰することができないから、これは遁辞としては有効である。

 しかし、いくら有効であっても、「重大な事実について頻繁に記憶が欠如するような人間が果たして国政の要路にあってよろしいのか」という大きな疑問が生じます。

 

これでいいのだ、と決めてしまうのが、この疑問を払拭する手段だと内田さんは書いています。

 

情けない話ですが、日本の政治ではこれがすでにかなり前から浸透しています。

 

そこで、本日の表題「イデオクラシ―」が出てくるわけです。

知的無能が指導者の資質として肯定的に評価されるような統治システムのことを「イディオクラシー」と呼ぶ。「愚者支配」である。デモクラシーが過激化したときに出現する変異種である。

 

フランスの青年貴族トクヴィルは200年前に当時のアメリカ大統領、アンドリュー・ジャクソンに面会した後、「米大統領は性格は粗暴、能力は凡庸」と書いているそうです。(たぶん、本人には絶対に知られないようにでしょうが)

しかし、アメリカ国民が彼を大統領に選んだのはなぜか、それは、「支配される人民と知性・徳性において同程度である支配者の方が「害が少ない」と考えたからである。」だとしています。

 

もしも、支配者と民衆の利害が異なった場合、支配者が有能であれば被害が大きいからだそうです。

 

日本の現状もまさにこの通りになっているのでしょう。

、今の日本はもうデモクラシーとは呼べない状態になっているのではないか統治者の無能と無知のレベルが限界を超えて、統治者自身、もはや民衆の利害が何であるかがわからなくなっているからである。しかたがないので、とりあえず自分と縁故者の利害だけを専一的に図るだけで日々を過ごすようになった。「イディオクラシー」とはそのことである。

と内田さんは結んでいます。

 

もうだいぶ前から政治家と言うものは子供たちが将来なりたいと考える職業ではなくなっています。

逆に、多少の不正で金を儲けることを許す代わりに嫌な役を行う醜業のようにすら見られているのかもしれません。