「イデオクラシ―」とは、idiot(ばか、間抜け)とdemocracy (民主制)とからの造語で、衆愚政治をさらに激化させたものを指します。
内田樹さんの「研究室」では、日本の政治はすでに衆愚政治などと言う程度ではなく「イデオクラシ―」と化しているとしています。
近頃の政治家や官僚の不祥事言い訳を聞いていると、「記憶がない」という答弁だらけです。
国民に疑念を抱かせるような行為について「あった」と言えば責任を取らなければならない。「なかった」と言えば、後から「あった」という事実が判明すると虚偽答弁になる。そこで、窮余の一策として彼らが採択したのが「国民に疑念を抱かせるような行為があったかなかったかについての記憶がない」という「事実の無知」による弁疏であった。事実の無知については、これを処罰することができないから、これは遁辞としては有効である。
しかし、いくら有効であっても、「重大な事実について頻繁に記憶が欠如するような人間が果たして国政の要路にあってよろしいのか」という大きな疑問が生じます。
これでいいのだ、と決めてしまうのが、この疑問を払拭する手段だと内田さんは書いています。
情けない話ですが、日本の政治ではこれがすでにかなり前から浸透しています。
そこで、本日の表題「イデオクラシ―」が出てくるわけです。
知的無能が指導者の資質として肯定的に評価されるような統治システムのことを「イディオクラシー」と呼ぶ。「愚者支配」である。デモクラシーが過激化したときに出現する変異種である。
フランスの青年貴族トクヴィルは200年前に当時のアメリカ大統領、アンドリュー・ジャクソンに面会した後、「米大統領は性格は粗暴、能力は凡庸」と書いているそうです。(たぶん、本人には絶対に知られないようにでしょうが)
しかし、アメリカ国民が彼を大統領に選んだのはなぜか、それは、「支配される人民と知性・徳性において同程度である支配者の方が「害が少ない」と考えたからである。」だとしています。
もしも、支配者と民衆の利害が異なった場合、支配者が有能であれば被害が大きいからだそうです。
日本の現状もまさにこの通りになっているのでしょう。
、今の日本はもうデモクラシーとは呼べない状態になっているのではないか。統治者の無能と無知のレベルが限界を超えて、統治者自身、もはや民衆の利害が何であるかがわからなくなっているからである。しかたがないので、とりあえず自分と縁故者の利害だけを専一的に図るだけで日々を過ごすようになった。「イディオクラシー」とはそのことである。
と内田さんは結んでいます。
もうだいぶ前から政治家と言うものは子供たちが将来なりたいと考える職業ではなくなっています。
逆に、多少の不正で金を儲けることを許す代わりに嫌な役を行う醜業のようにすら見られているのかもしれません。