爽風上々のブログ

熊本の片田舎に住むリタイア読書人がその時々の心に触れたものを書き散らしています。読んだ本の感想がメインですが(読書記録)、エネルギー問題、食品問題など、また政治経済・環境問題など興味のあるものには触れていきます。

「たまたま 日常に潜む偶然を科学する」レナード・ムロディナウ著

「たまたま」とは、英語で言うところのRandomness ということです。

偶然性とか、乱雑性とか訳されますがばらばらに出てくるようなものといったことでしょうか。

物理学や数学で様々な事例が挙げられます。

 

ここでは、もともとは理論物理学者であった著者のムロディナウ氏が一般向けに分かりやすく様々な挿話や比喩を駆使してランダムということを説明していきます。

このムロディナウという人は、大学卒業後も各地の研究所で理論物理学を研究していたのですが、ある日突然そこを辞めてハリウッドに移り住んだということです。

そこで映画のシナリオを書く仕事を求め、やがてスタートレックなどのテレビ番組の脚本を書くようになりました。

その後は、科学ライターとしても仕事をしています。理論物理学の話題を一般向けに書くというには最適と言える経歴の持ち主かもしれません。

 

ランダムネスというものは、非常に身近なものでありながらなかなか理解しがたいものかもしれません。

古代ギリシア人は確率というものが嫌いだったそうです。

彼らはきっちりとした公理で証明できる数学にのみ興味を示し、確率のようなあいまいに見えるものは毛嫌いしていました。

しかし、現代人といえど確率というものをはっきりと認識している人は少ないようです。

偶然出現しているだけのパターンになんらかの意味を勝手に見出してしまうということをよくやっています。

実際は偶然だけで成功したような投資家や実業家を大きな才能があるかのように崇めたりもしてしまいます。

 

ランダムネスと確率というのは、古代から流行してきたギャンブルと密接な関係を持っていました。

しかし、それを科学的に解明しようということはかなり遅くまでは手を付けられませんでした。

ようやく、16世紀になってイタリアのジェロラーモ・カルダーノによってその第一歩が始められました。そのカルダーノも天性のギャンブラーだったようです。

 

ついで、17世紀フランスでブレーズ・パスカル(哲学でも有名ですが、数学でも数々の業績をあげています)がすべてを数え上げるパスカルの三角形や、期待値の概念を作りました。

そのパスカルも20代で父の遺産を受け継ぐや、その金をギャンブルに使いまくったそうです。

 

どうやらランダムネスについての理解不足が様々な迷信に人を誘い込んでいるようです。

 

たまたま―日常に潜む「偶然」を科学する

たまたま―日常に潜む「偶然」を科学する

 

 

とはいっても、難しいんですよね。

 私も高校生に数学を教えることがありますが、この辺は非常に理解し難いようです。

夢の話「福岡空港で迷う」

福岡空港と言っても現実の場所ではないのですが、夢の中では「ここは福岡空港」と強く意識していました。

 

このところ、夢で見る交通関係はたいてい鉄道だったのですが、珍しく空港が出てきました。

まあ、その理由は明らかで昨日の家族との話の中で熊本空港への交通の便が良くなったということが出ていましたので、それに影響されたのでしょう。

 

夢の中ではただし、駐機場とブリッジがなぜか「地下」にあります。

そこまでたどり着かなければいけないのですが、その手段は「バスのみ」です。

実際にはかつての整備中の羽田空港などではバスで飛行機まで行くということはありましたが、ボーディングブリッジの前の待合室までバスで行くという空港は経験がありません。

 

しかし、夢の中ではそれが規定条件ですので、バスに乗り込み待合室に向かいます。

そのバスが、運転手が変な人でまともに走りません。そのうちになぜか空港から外に出てしまい、ビルの屋上のようなところに登ってしまいます。

出発時間まではもう30分を切ってしまい、こりゃ乗り遅れだとあきらめました。

 

バスで走り回っているビルの光景がいやにリアルで、植栽を屋上のあちこちにふんだんに植え込んであり、空中庭園のような有様です。

 

普段は寝室のエアコンは動かしていないのですが、この1週間ほどはあまりの夜間の暑さに仕方なく冷房を入れっぱなしです。そのためか、明け方にかえって寒くなり目を覚ますということもあり、睡眠がうまく取れないようです。

変な夢を見るのもそのせいかも。

 

なお、普段よく利用しているのは熊本空港ですが、かつては福岡空港を利用していた時期もあります。

熊本に最初にやって来た新入社員当時は、熊本駅から空港までのバスが道路が未整備だったために、非常に時間がかかったので、福岡まで出た方が楽だったということあがりました。

その後、熊本市内から空港に抜ける「第2空港線」という道路が整備され、さらに九州自動車道とのインター(空港インター)も設置されましたのでかなり便利になりました。

また、5年前まで3年ほど金沢に単身赴任をしていた時は、航空路線が小松から福岡までしかなく、仕方なく福岡から乗っていたこともありました。

福岡空港にはお世話になっていた時期もありますが、いつも思うのは博多駅から非常に便利がよく、地下鉄で5分ばかり、乗り換え時間を含めても30分もかからずに新幹線まで到達できます。その分、市内中心部の住民の方々の騒音被害も大きいのではと思っています。なにしろ離着陸寸前まで市街地の真上を飛びますから。

 

寝苦しい夜が続きます。また悪夢を見そうです。

 

脱エネルギー社会の構築に向けて(3) 運輸交通はどの程度残すのか

ここから先が少しの条件の差異で大きく状況が変わってくるところです。

ガソリンなど化石燃料使用の自動車等の、個人使用は多額の税金徴収によって制限するという基本方針ですが、かといって移動手段、運輸手段を徒歩や馬車に限る訳にはいきません。

そのためにも脱エネルギー化の初期には何らかの方策で公共交通や貨物輸送手段は確保する必要があります。

 

ただし、これらも個人に任せることは避けなければならないと考えています。

初期の段階ではあくまでも化石燃料は残存しています。価格もそれほど高騰はしていないはずです。日本が化石燃料争奪戦から撤退したとなれば産油国側の販売攻勢も強まりかえって価格は下落するかもしれません。

その状況で自由競争を許せば元の木阿弥となるでしょう。

 

ここは鉄道だけでなく、道路交通も海上輸送も、国内については公的なコントロールをしていかなければならないところです。

 

 なお、現状の輸送手段のエネルギー効率を調べてみました。

資源エネルギー庁の作成した資料がありました。

2.1.2 部門別エネルギー消費の動向 │ 資源エネルギー庁

やや古い2002年あたりの数字ですが、

旅客部門で自家用自動車2.4、バス0.8、鉄道0.18、飛行機1.7 (単位MJ/人Km)

貨物部門で営業トラック2.6、自家用トラック13.8、鉄道0.23、海運0.58、飛行機22.6(単位MJ/トンKm)

です。

鉄道の効率の良さ、トラックの浪費ぶり(飛行機並)ということが分かる数字です。

 

さらに、交通手段とエネルギー源を考えてみます。

旅客

飛行機 ジェット燃料(石油由来)

鉄道  電気

    軽油 その他(石炭:ほとんどなし)

自動車 石油由来燃料

    天然ガス

    電気

    水素(ほとんどなし)

その他、自転車・徒歩・人力車・カゴ

 

貨物

飛行機 ジェット燃料(石油由来)

鉄道  電気

    軽油その他

自動車 石油由来燃料

    (自動車も貨物については電気は少ない)

船舶  石油由来燃料

    天然ガス・石炭

その他、馬車・牛車・リヤカー

 

このように、石油や天然ガスなどの供給源減耗の不安から使用自粛を考えているエネルギー源を用いる輸送手段としては、特に「飛行機」「自動車(貨物)」であるということが分かります。

 

また、上記のエネルギー効率から見てもこの二種の輸送手段は可能な限り速やかに使用を避ける方向で取り組まなければならないと言えるでしょう。

 

これらのことから、来るべき「脱エネルギー社会」(ただし、ある程度のエネルギー消費は当分の間は残す)では、旅客移動は鉄道主体、貨物輸送は鉄道と船舶、とするべきでしょう。

ただし、都市間輸送などでは大規模鉄道の輸送が現存の設備で可能ですが、都市内輸送は大都市圏を除いては極めて乏しい状態になっています。

これらを再構築しない限り社会の運営は難しいものになります。

 

(続く)

「格差と序列の心理学 平等主義のパラドックス」池上知子著

格差や不平等といった問題については、多くの人々の関心を呼び特に経済学や社会学の研究者たちが数々の意見を発表していますが、この本では心理学の立場から格差や平等といった問題を人々がどのように認識し、その背後にはどのような心理が隠れているかということを分析していきます。

 

人々の間に格差があるということは、社会的に支配する層、支配される層があるということを当然と認めるかどうかという心理が関わってきます。

こういった、「社会的支配志向性」の強い人々ほど、対外的に強硬ではないかと考えられますが、911テロのあとの意識調査では、アメリカなど西欧各国ではその傾向が強いものの、中東諸国では逆となり、社会的支配志向性の弱い人々ほどテロリズム支持の傾向が強かったそうです。

 

また、今の格差を作り上げてしまったシステムというものが存在するはずなのですが、そのシステムを正当化する心理状態というものがあるようです。

現行のシステムで不利益を受けている人々、アメリカで言えば貧困層黒人などでは、それが自分の能力のせいではない、つまりシステムのためだとして、システムを正当化してしまう心理状態になってしまうようです。

 

格差が広がってしまう時には、それぞれの集団ごとに動いていくことになるために、集団への帰属意識というものが強まるそうです。

つまり、名門大学出身者集団であるとか、高卒労働者集団であるとか言った集団に属するという心理が強まるのですが、そうなるとそれぞれの集団、そして自分以外の集団といったものに対する認識がステレオタイプ化し、「高卒で働く連中はこんなもの」といった固定概念ができてくるようです。

自身の社会的アイデンティティというものを心理的に守るためにもそういった動きが強まるのでしょう。

 

 

日本では長らく平等神話というものがあったと感じられていましたが、規制緩和から競争原理の強化という流れの中で格差拡大が認識されるようになりました。

しかし、経済成長時代であっても格差は歴然として存在していたと考るのが当然であり、そこから見直していく必要がありそうです。

 

学歴社会というものが強力に作用していたのが日本であるというのは間違いないところで、東大京大などのエリート大学、それ以外の大学、高卒者、それ以下といった具合に分化されていました。

この辺の議論には以前に本を読んだ橘木俊詔さんの論が引用されています。

 

さらに、その後の展開として、吉川徹さんの「学歴分断社会」も引用されています。

これらの議論を集約する形で、本書では次のように要約されています。

日本では「学歴」が重要な位置を占めていたが、総中流社会の時には学歴による経済格差は小さかった。しかし現在は学歴が経済格差を拡大する社会になってきた。

また学歴の子供への継承ということが固定化し、階層の固定化につながっている。

 

 あとがきにあるように、格差問題は多くの議論がなされていますが、その心理的背景を論じたものはあまりないようです。

これを深く洞察して人間性に基づいた政策論議が必要であろうと結んでいます。

 

格差と序列の心理学―平等主義のパラドクス

格差と序列の心理学―平等主義のパラドクス

 

 

 

 

 

 

 

「詩経 中国の古代歌謡」白川静著

白川静さんといえば字統、字訓といった漢字学の集大成の著書で有名ですが、中国の古代の歌謡の記録である詩経の研究もされています。

 

この本は、中国古代でも氏族制社会が崩れていく中で多くの詩が作られ、そしておそらくは声に出して詠まれていたということを、ちょうど社会の動きとして極めて類似している日本の万葉集と対比させて解説しています。

 

中国で詩が作られたのはおそらく周王朝の前半でしょう。当時はそれまでの氏族制社会が徐々に王朝を中心とした社会に変化しているところでした。

それは、個人の感情を歌うものではなく、氏族の祭祀のためのものであったそれ以前の詩というものが、民衆というものの成立とともに個人にまで降りてきたというものだったのかもしれません。

 

しかし、周王朝も一旦滅びたあとに東遷したころから春秋時代と呼ばれる諸侯の国の並立する状態に移行すると、盛んに国同士の外交といったものが盛んになります。

その場で、外交交渉の手法として使われるようになったのが詩というものでした。

これに通じた者のみが貴族的教養を持ち外交者として適任であると言った価値観が形作られるようになると、詩本来の意味を考えること無く教養を表す手段としてのみ使われるようになってしまいます。

 

ここで、中国古代の詩という文学作品は大きく変質してしまいました。

 

さらに儒教集団に取り込まれ、「詩経」という「経」扱いをされるということにもなってきます。

その中で、詩というものの内容の解釈も、社会的、政治的意味合いを持つものであったというような強引な解釈法が横行するようになっていきます。

 

こういった解釈法を「美刺(びし)」と呼ぶそうですが、この観念が漢時代ころから広く通用した詩経学でした。

漢代にはその直前の大乱からの回復のために様々な古典の調査や整理が行われたのですが、その一環として詩経も多くのテキストが整理されました。

その中でも後漢の毛亨のまとめた毛伝というものが詩経学の主流になったそうです。

しかし、これも数々の国々の説話と詩篇とを結びつけて牽強付会の解釈を与えたものでした。

 

そういった古典的な解釈にやや疑問が出されたのは、ようやく宋代になってのことでしたが、それも不十分なもので、詩篇の文学的な内容まで問題にするようになったのは、ようやく新中国になってからのことでした。しかしそれらもまだまだであると著者は判断しています。

 

この後、この本は詩経の中の詩を取り上げてそれがどのような成立条件のもとで出来上がってきたのかということを分析し、さらに万葉集の歌と比較して論じていきますが、多数になりますので詳述は避けます。

 

一つの例のみ。

周南の「巻耳」(けんじ)という詩は美しいものとして知られています。

采采巻耳 不盈頃筐

寒嗟懐人 眞彼周行

と始まりますが、「はこべ」の類の草を摘んでもなかなか籠にいっぱいにならない。

ようやく摘み終えたものを、征人として出征している夫の無事を祈って道に置くというものです。

 

このような風習は万葉集にも多く見られ、

難波辺に人の行ければおくれ居て若菜摘む児を見るがかなしき

という歌にも詠まれているように、女が男に会えるような祈りを込める行為であったようです。

 

詩経―中国の古代歌謡 (中公文庫BIBLIO)

詩経―中国の古代歌謡 (中公文庫BIBLIO)

 

 

私が詩経というものについて知りたいと思ったのも、春秋左氏伝や史記などを読んでいるとあちこちに教養ある貴族がその知識を見せるために詩篇を詠じるという場面が頻出するため、その中味がどのようなものかということを見たいということからでした。

しかし、どうやらそういった詩篇の利用というものは、白川さんに言わせれば間違いであったということのようです。

 

脱エネルギー社会の構築に向けて(2) 自動車社会の解体の現実

話を続ける必要上、自動車社会解体のために石油燃料車の使用禁止に向けた政策を考えるという方向で書こうとしたら、イギリスやフランスでガソリン車使用禁止という話が飛び込み驚きました。

 

news.yahoo.co.jpこれは先を越されたかと思って少々焦りましたが、まあ私の考えとはそこまで重なるものではないようです。

とはいえ、ヨーロッパ先進国ではそういった政治的方向性を確実に検討しているわけで、自動車の経済効果だけを考えている日本政府やアメリカトランプとは大きな差が生じているのは間違いなさそうです。

 

それでは、どこが違うかを見ていきましょうか。

 

イギリス・フランスは2040年までに電気自動車化を進め、その年にはガソリン車・ディーゼル車の販売を禁止するということです。

つまり、社会構造の変革といった根本改造を政府として主導するということは考えず、あくまでも電気自動車代替を進める中で社会の変化も促すということでしょう。

 

私の考えでは、これは非常に難しいものと思っています。

電気自動車は今はまだ非常に微小と言えるほどの規模しか占めていません。

ガソリン車は今では様々な資源の搭載を行なっているとは言え、基本的には鉄だけで作られるものです。だからこそ現在のように数億台の自動車が地球上に氾濫することになりました。

しかし、電気自動車には鉄以外にどうしても避けられない蓄電池というものが必要になります。

これに鉛を使うか、リチウムを使うか、さらに別の資源を使うかはわかりませんが、いずれにしても大量の資源が必要となります。

これが現在のガソリン車と同数の電気自動車の分だけ供給できるのか。

また、現在では電力供給も問題とはなっていませんが、将来仮に自動車がすべて電気自動車となった場合に電力は大丈夫なのか。これも現在のままごとのような電気自動車使用状況とは異なってきます。

私は完全には代替は不可能と考えています。

 

つまり、「自動車の総数」というものがかなり減少する状態で、ガソリン車禁止ということをしなければならないということです。

あと、20年余りでそのような状況に対応できるような社会変化が「自然に」起きるでしょうか。

 

ここはやはり「社会変革」を最初から主たる目標とするべきでしょう。

つまり、自動車総数を相当減らすことを前提とし、それでも動くような社会に変えていくということです。

これは事実上、「自動車社会の解体」ということになるはずです。

 

私の考えでは、「ガソリン車販売禁止」などという野蛮な手法は取りません。

やるべきことは、ガソリン等化石燃料使用車に対する高額な税金賦課です。

その具体的数値はまだ算定できませんが、ガソリン税だけでも数十倍、その他自動車保有税、道路使用税等といった負担をしていただければ、走行自体を禁止することはないでしょう。

そして、それらの税金を用いて大規模な公共交通の整備を行うわけです。

 

その公共交通体系の再構築というものが、何度も書いているように「脱自動車社会の構築」というものにつながっていくわけです。

 

(続く)

またも「政権受け皿談義」

日曜の朝、のんびりしながら(まあ毎日のんびりですが)テレビなど見ていると、いつもの放談番組で「政権受け皿」談義です。

 

いよいよ安倍政権も先が無くなったと見えてきたのでしょうか。遅すぎるのですが、ようやくというところでしょう。

 

しかし、ここで「受け皿」とはなんでしょう。

安倍政権もデフレ対策や経済成長戦略では良かったけれど、政治姿勢が悪すぎるからそこだけ清潔な政治家に任せようとでも言わんばかりの様子でした。

 

「受け皿」論については、東京都議選が終わったあとに書いています。

sohujojo.hatenablog.com

確かに、安倍内閣の数々のスキャンダルはこれまでの歴代内閣と比べてもその質、量ともに群を抜いたひどさですが、しかしあの政権の一番のひどさはその看板政策のアベノミクス・デフレ対策等々であるということはこれまで何度も書いてきました。

 

年金資産などの国民の財産を株式などに投資し株価を釣り上げ、まぼろしの株式市場上昇を作り上げて景気回復のイメージを上げて支持率を上げ、本当にやりたい憲法改悪、安保法制整備などに邁進するという悪辣ぶりでした。

 

ここをきちんと取り上げて批判し、政権を葬るというのがまともな道でしたが、それができないまま結局は政権自滅のスキャンダル待ちでしかありませんでした。

 

ここでスキャンダルは批判し政権交代を唱えても、根本の間違いを論じないまま「受け皿」などと言い出しても、安倍亜流を作り出すだけです。

 

形ばかりの安倍批判にも目をくらまされることなく、本当に日本の将来を考えていく必要があります。

(「日本の将来を考える人を選ぶ」ではありません。自分のことなんだから自分で考えろということです。)

 

その点、もし参考になれば私の「脱エネルギー社会実現」という記事も読んで下さい。