著者のお名前は「かんばし・のりまさ」と読みます。
鹿児島県の高校校長や短大教授などを歴任、尚古集成館の館長も勤められました。
江戸時代にキリスト教を禁制とし、そのため「隠れ切支丹」という人たちが居たということはよく知られていることですが、島津藩の薩摩ではキリスト教以外にも浄土真宗も厳しく弾圧されていました。
そのために、「かくれ念佛」といった人々が生まれました。
家の中に仏像を置きそこで念仏を唱えていると、土地の役人に知られてしまうかもしれません。
そのため、お墓参りをして墓地で念仏を唱えるということが多かったそうです。
他の土地と比べてお墓参りに出かけるということが異常に多くなりました。
また、お墓参りの際に持参するということで、切り花の販売額も全国的に見てもかなり多く日本一だそうです。
薩摩藩が真宗(一向宗)を禁止した時期やその理由というものは、諸説あってはっきりしていないそうです。
いつからともなく始まったものの、厳しく取り締まったということははっきりしているようで、数々の記録には残っています。
禁制の始まりとしての説の中で大きなところでは、伊集院幸侃事件というものがあったそうです。
伊集院幸侃(忠棟)は島津の一族でしたが、本家に反抗したということで島津家久に手打ちにされました。江戸時代初期のことです。
忠棟は豊臣秀吉の九州征伐の際、秀吉に内通して島津の降伏を推進しました。その恩賞として大隅を領地として貰ったのですが、秀吉死後に本家に殺されました。
この忠棟が真宗信者だったということです。
また、秀吉侵攻の際に鹿児島県出水郡の真宗信者が秀吉に寝返り、それが島津降伏の理由となったので真宗信者の排斥につながったということも信じられています。
1597年に島津義弘が真宗を禁制としたということは事実のようで記録が残っています。ただし、その文書の中で義弘は「先祖以来の禁制の儀」と書いており、自分が始めたのではなく祖父の島津忠良が始めたとしています。
しかし、やはり秀吉の島津征伐の際に真宗信者が裏切り秀吉に内通したということが、その後の真宗禁制につながったのではと著者は見ています。
その後、真宗信者の摘発は非常に厳しく行われ、死刑や遠島などに処されたという記録は多数残っており、多くは地方在住の郷士や百姓であったようです。
幕末の天保時代に大掛かりな摘発が行われた時には、信徒14万人が罰せられたという記録がありますが、その時代の薩摩藩総人口が80万人程度の頃ですから、非常に多くの人々が隠れ真宗信者であったということです。
彼らは一人一人がばらばらに真宗を信じていたのではなく、潜伏組織を作っていました。
これは隠れ切支丹と同様のもので、信者を指導し組織する系統ができており地域の中に根強く残っていったものでした。
明治になり、真宗禁止の規制はなくなりました。
それと同時期に廃仏毀釈というものが全国的に行われたのですが、鹿児島県ではそれが徹底的であったことが知られています。
真宗信者たちはそもそも江戸時代には寺を持っていませんでした。鹿児島に存在した寺院はすべて他宗のものでしたので、真宗信者たちはそれらを破壊することに何の反対もせずに喜んで行なったからのようです。
鹿児島では今でも封建的な風土と言われていますが、その中で島津藩のお上の禁制に激しく抵抗したのも民衆であるというのは特記すべきというのが著者のまとめでした。