爽風上々のブログ

熊本の片田舎に住むリタイア読書人がその時々の心に触れたものを書き散らしています。読んだ本の感想がメインですが(読書記録)、エネルギー問題、食品問題など、また政治経済・環境問題など興味のあるものには触れていきます。

「古文書に見える 中世の八代」高野茂著

著者の高野さんは熊本県の高校教諭を長く勤めましたが、そのかたわら古文書の調査研究を行ってきたそうです。

30年前に八代市立博物館が開設され、その友の会が結成されたのですが、その会報「松籟」にずっと「古文書に見える八代」と題した連載記事を書いてきました。

それが30年続いたのを機に一冊の本としてまとめたものです。

 

熊本県八代市八代海に面する良港であり、球磨人吉方面、薩摩方面に向かう交通の要衝でもあり、古代から栄えてきたところです。

多くの古墳もあり、また中世には城が築かれ各方面からの勢力のせめぎ合う場ともなりました。

 

本書著者の高野さんはあくまでも古文書が興味の対象だったらしく、考古学的な成果に関することは触れていません。

そのため、本書も平安時代末から記述が始まっています。

 

平安時代末期の久安元年(1145年)の日付のある訴状が残っているそうですが、肥後南部の豪族たちが奪ったり奪われたりの闘争を行いそれを訴えた訴状が高野山文書に残っています。

その中に「八代藤三重永」という名前が現れています。

これはどうやら、菊池一族の出身らしく八代を領有してその土地名を付けたようです。

なお、その頃に平清盛日宋貿易に関わる播磨の国印南野、肥前の国杵島郡を領有していますが、その二か所と共に肥後八代も大功田として得ている記録があり、八代の地も日宋貿易の拠点であったことがうかがわれます。

 

室町時代の初期に南北朝の争乱が起きます。

肥後の国も南北に別れて戦うのですが、後醍醐天皇の皇子懐良親王が菊池氏を頼って九州入りします。

親王は主に菊池を本拠としていたのですが、一時八代にも下向したことがあるようです。

現在も懐良親王陵と言うものが残っています。

 

その後名和氏が八代を領有するのですが、球磨の相良氏が徐々に侵攻し、やがて取って代わって八代を第二の拠点とするようになります。

当時の徳淵の津という貿易港を支配し、中国貿易を行って利益を得ることになります。

現在の古麓にあった城を中心に、多くの臣下も城下に住むようになりました。

 

しかし戦国時代末期には薩摩の島津氏が力をつけ北上を開始します。

相良氏を破り配下とし、そこからさらに北を目指し龍造寺氏や大友氏と衝突するようになります。

その先兵として使われたのが相良氏で、多くの戦死者を出したようです。

ところが時すでに遅く、全国を豊臣秀吉が平定しようとしていました。

秀吉自らの出陣で島津軍を退け、秀吉は八代まで達します。

そこで島津は降伏し薩摩大隅の領地のみを安堵され戦は終わります。

 

本書の記述もここまでとなっています。

 

各方面の勢力が手を伸ばし、争っても欲しがった八代と言う地の価値は高かったのでしょうが、今は残念ながらそのような魅力はかなり失われてしまいました。

 

しかし、様々な文書を丁寧に読み込み、細かく解釈していく著者のその努力には敬服しました。

(自費限定出版のためか、ISBNコードは無く、イメージもありません)