八代歴史散歩シリーズ今回は八代城です。
八代には南北朝時代から城が築かれ、数々の戦乱に巻き込まれてきました。
現在の城跡は松江にあるため別名を松江城と言いますが、その他に古い方から、古麓城(ふるふもと)、麦島城と3つの城が存在しました。
(Google Mapより引用して加工)
等高線が無いために少し分かりにくいですが、地図右下の古麓城という書き入れの辺からは山になっています。
その下を流れる球磨川は、現在では麦島の東から2つに別れ北側が前川と呼ばれていますが、かつてはこちらは水が流れずに入江であったようです。
それでは略歴を。
1335年 南朝の名和長年の息子の名和義高が八代を与えられ、地頭代として内河義真を
1504年 人吉の相良氏が名和氏を降し、古麓城に入り八代を領有する
1581年 薩摩の島津氏が相良氏を降し、八代を領有
小西行長に肥後南部を与える
1588年 小西氏が球磨川河口に麦島城を建設
1600年 小西行長は関ヶ原の戦いで斬首、小西氏に代わり肥後には加藤清正が入る
1619年 麦島城が八代地方を襲った地震で倒壊
なお、当時の江戸幕府の一国一城令では本来は肥後に二つ目の城は許されない
はずだが、薩摩の島津氏に対する備えとして特例で八代に城を建設することが
許された
九州での政争の焦点として多くの戦いの舞台となってきたようです。
最初は山城としての古麓城が建設され、実際に籠城戦も行われたようです。
秀吉により全国統一がなされると当時既に商業都市として栄えていた平地の球磨川河口部に城が築かれました。
この麦島城は北方の加藤氏への備えとして町の南部に建てられたのですが、地震で崩れたあとの再建の地としてはすでに戦争の防御を考える必要がなくなったために、少し北方の松江が選ばれました。
麦島城の跡は完全に地に埋もれていたために発掘されるまでは場所も不確かでした。
松江城跡は、中心部だけですが現在でも堀と石垣が残っています。